第8話 お前は、俺の息子だ
父上の「行くぞ」の声が消えるより早く、天が裂けた。
轟音。次いで、叩きつけるような雨。
晴れ渡っていたはずの聖誕祭の空が、まるでこれから始まるものを厭うかのように、一息に泣き出した。
(天まで啼くか)
乾いていた訓練場は瞬く間にぬかるみと化し、足元の感触が一変する。それでも、俺と父上の間に流れる沈黙は変わらない。
父上は腰の長剣を低く提げたまま、微動だにしない。切っ先は泥を掠めるほど低い。だが、どこにも隙がない。俺は逆手に構えた二振りの舶刀を左右に開き、雨粒を弾く切っ先に意識を研ぎ澄ませる。
言葉は、もういらない。
――何だ、この感覚は。
剣を交える前から分かることがある。俺の中で眠っていたはずの、遠い戦場の「習い」とでも呼ぶべきものが、静かに騒いでいた。目の前に立つのは、紛れもなく育ての父。慈しんでくれた人だ。それなのに、腹の底が冷える。
(これは……人を殺したことのある者の目だ)
なぜそう分かるのか、俺自身にも説明はつかない。ただ、確信だけがあった。父上は今日、俺を子として見ていない。
雨脚が強まる。ぬかるみが、俺たちの足を等しく捕らえていった。
先に動いたのは父上だった。
軽くはない。むしろ重い、地を這うような踏み込みから放たれる牽制の一薙ぎ。強化魔法をまとった長剣の切っ先が、泥を跳ね上げながら俺の喉元を掠めるように奔る。
俺は脚に強化魔法をまとわせ、低く沈んだ。膝を折り、泥を噛むように爪先を沈めた。長剣の有効間合いを殺すため、一気に懐へ潜り込む。連撃で刻み、一瞬の間隙も与えない――それが唯一の活路だ。
「―――土衝!」
舶刀を握った拳を地面に突き、瞬時に隆起させた土塊を盾に父上の踏み込みを一拍削ぐ。狙い通り重心がわずかに泳いだ隙を逃さず、俺は一気に死線の中へ滑り込む。
放ったのは風断。目には映らぬ風の刃が、下からすくい上げるように奔る。
だが、父上はそれが見えていた。コーデリアさんのように魔力反応を読んで先を取ったわけではない。まるで獣のように、降りかかる脅威を瞬時に嗅ぎ取ったのだ。半身をひねって致命の軌道を外しながら、返す長剣を大きく振り下ろす。
――ズブリ。
鈍い感触と共に、肩口の肉が抉れた。骨には届かなかったが、熱いというより冷たい痛みが奔り抜ける。血の代わりに、まず雨が傷口を洗った。
だが、避けられた風断は囮に過ぎない。低く滑り込ませた左の舶刀が、父上の太腿を深く引き裂いていた。
「……ッ、悪くない」
父上が口端を吊り上げる。だが、その双眸は冷え切ったままだった。
そこから先は、技も型もなかった。
ただの、泥にまみれた命の削り合い。
激突する剣から火花が散り、鍔迫り合いのまま泥を蹴り合って足を刈りにかかる。柄頭が顎を狙い、膝が脇腹を抉る。美しい太刀筋も、流麗な型も、そこにはもうない。あるのは、泥に塗れた二つの意地だけだった。
跳ね上がる泥水が、両者の顔を等しく汚していく。
膠着を破ったのは、父上だった。
「―――一刀双刃!」
一振りの剣から放たれる、高速の左右同時斬り。俺はとっさに二振りの舶刀を交差させて受け止めるが、衝撃だけで身体ごと弾き飛ばされた。
泥を跳ねさせながら、距離が開く。
これで決める――そう思った。脚に、腕に、刀身に。有り金すべてを注ぎ込むように強化魔法を叩き込み、逆手の二振りを翻す。
「―――双燕斬!」
右と左、二つの斬撃が交差するように父上へと奔る。燕が翻るがごとき二連撃、これまでの鍛錬すべてを注いだ一撃だ。
だが。
父上の右腕にだけ、視界が歪むほどの超高密度な魔力が集約される。骨がきしみ、筋肉が破裂せんばかりの異常な部分強化。
「見せてやる」
――― 一刀参刃
一筋の剣閃から、三つの凶刃が同時に奔った。
左、右、そして想定の外――ど真ん中を貫く一線。
二対三。数の絶対差が、そのまま結末となった。
俺の放った双燕は左右の刃に弾かれ、防ぎようのない中央の切っ先が、俺の右腕へと吸い込まれる。
――ザンッ
あまりに無機質で、呆気ない切断音だった。
肘の少し下から、俺の右腕が宙を舞い、泥の中へと落ちていく。指先が握りしめたままの舶刀が一振り、主の体温を失ってぬかるみに沈んだ。
腕を失った断面から、遅れて焼き火箸を押し当てられたような激痛が脳を焼き、ガクガクと膝が折れかける。
息子を愛する妻の目の前で
息子に泥を食ませ 痛めつけ あまつさえ
本気でその命を刈ろうとする親がこの世にいるだろうか
視点の定まらない息子を見る父の双眸
今なお そこに込められていたものは
まだ―――これからだ
そうだ 俺は
ここで父を超えねばならない
ようやく分かった
これが 父の教えだ
思考より先に、身体が動く。
「―――迅雷」
声にならないつぶやきと共に、全身に雷が奔る。考えるより先に、感じたままに身体が反応する。もう、右腕のことは忘れ去っている。
バチバチと肌の上で微弱な雷が爆ぜ、雨粒が触れるたびに小さな蒸気を上げる。骨がきしみ、肉が悲鳴を上げているが知るものか。止まるという選択肢は、とうに消えていた。
俺は残った左手の舶刀を強く握り直し、切断面から吹き荒れる己の血飛沫を撒き散らしながら、父上の懐へ頭から突っ込んだ。
浴びせられた生温かい血の目くらましに、父上がわずかに顎を引く。視界を奪ったこの一瞬こそが、今の俺に残された唯一の道だった。
だが視界を奪われてなお、父上の反応は化け物じみていた。俺の左刃が父上の脇腹を深く抉り込む手応えと同時に、目の前に鉄塊が迫る。
父上の左拳が、俺の鼻をへし折り、そのまま顎を粉砕した。
視界が白く弾け、意識が一瞬飛ぶ。それでも、倒れるわけにはいかなかった。
ふらつく身体を意地だけで支え、俺は残された左の一振りを、まっすぐ父上の喉元へ突き出す。
同時に、父上の長剣が振り下ろされた。
鈍く重い音が、俺の胸の中央で弾けた。骨が砕ける感触と共に、鋼の刃が深々と食い込んで止まる。
それとほぼ同時、俺の舶刀の切っ先もまた、父上の喉笛を深々と貫いていた。
互いの得物が、互いの命を等しく刺し違えて。
深く穿たれた二本の刃が骨に噛み合い、互いの身体を離すまいと繋ぎ止めている。
抱き合うような、あるいは寄り添うような姿勢のまま、俺と父上は泥水の中へ、ゆっくりと両膝をついた。
傷口から溢れ出す大量の血が、降り注ぐ雨に薄まりながら混ざり合い、足元のぬかるみを赤黒く染め上げていく。
急速に失われていく互いの体温を、皮膚越しに感じる。
視線が絡んだまま、離れない。
父上の目に浮かんでいたのは、憎しみでも殺意でもなく――ただ、静かな満足だった。
(ああ……)
二人に言葉を紡ぐ力は、もう残っていない。
「お……え゛……は、っ……おれ……子……だ」
「……ぃ」
折り重なるようにして、俺と父上は、泥の中でぐったりと動かなくなった。
雨だけが、いつまでも二人に降り注いでいた。
そこで、俺の意識は途切れた。
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