第9話 刃愛
雨脚は、いまだ緩まない。
柵の外に押し出されるようにして詰めかけた村人たちの目に、それはもう剣術には見えなかった。ただ、獣が獣を食い破ろうとする、剥き出しの意志だけがそこにあった。
技の有無など、誰にも見分けられない。閃光のような太刀筋、地を割る震動、跳ねる泥と血。分かるのは、あの皆から頼られるロンと、礼節をわきまえる心優しき青年に育ったジンが、殺すつもりで刃を交えているという、ただそれだけの事実だった。
「――なんで、こんな……」
誰かがつぶやいた声は、雨音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
最前列で、崩れ落ちそうな身体を意地で支えていたのは、ジェシカだった。
両手を固く握りしめ、爪が手のひらに食い込むほどの力で、それでも彼女は目を逸らさなかった。逸らせなかった、と言ったほうが正しい。
(ロン……)
脳裏に蘇るのは、まだ雨の匂いもしなかった、今朝のことだ。
訓練場へ向かう背中に、彼はふと足を止め、振り返らずに言った。
「ジェシカ。後は頼んだぞ」
それだけだった。理由も、説明も、何一つ添えられていなかった。けれど、二十年連れ添った妻には、それで十分すぎるほど伝わってしまった。
(今日、この人は、本気で殺し合うつもりなのだ)
止める言葉は、喉の途中で凍りついたまま、出てこなかった。ロンの背中があまりに、覚悟に満ちていたから。この村に身を寄せる前から、その背中を、ジェシカは何度も見てきた。
だから今、ジェシカは涙一つ流さず、ただ祈るように両手を握り、その時を待っている。夫と息子、どちらの命も取りこぼさないために。
ぬかるみの中で交わる二つの影。村人たちに分かるのは、断片だけだ。
コーデリアは、剣を握る拳を、もう片方の手で押さえつけていた。今すぐにでも飛び出して二人を引き剥がしたい衝動を、爪が白くなるほどの力で押し殺している。彼女ほどの剣士だからこそ分かるのだろう、これがどれほど正気の沙汰でない領域の斬り合いか。
エドガーとオプトは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。かつて共に修羅場をくぐった仲間の二人でさえ、今目の前で起きていることに、かける言葉一つ見つけられずにいる。
アリアは、ジェシカの陰に隠れるようにして、両手で口を覆っていた。震える肩を、誰も気づかぬまま雨が濡らしていく。
村を守るために配された騎士団の一隊も、槍を構えたまま、それでいて誰一人動けずにいた。
「……あれが、元六星冒険者と、その息子……」
槍を構えていた若い騎士の一人が、震える声でつぶやく。恐怖だけではない、隠しきれない畏敬の色がその声に滲んでいた。
――そして
降り注ぐ雨が、突風を孕んだ乱れ雨に変わる、その瞬間。
ジンの右腕が宙を舞った。
「――ッ!!」
アリアの絶叫が、雨音を切り裂いた。村人の何人かが、思わず目を背ける。それでも、ジェシカだけは、瞬きひとつせず、ただ見つめ続けていた。
(堪えて。堪えるのです、ジェシカ――)
互いの切っ先が、互いの喉と胸を貫いた。
膝から崩れ、折り重なるようにして、父と子は泥の中に沈んでいった。
誰も、声を出せなかった。
―――その静寂を破ったのは、他ならぬジェシカだった。
力の根源たるは「万緑」
基幹属性「生」
―――極光回復魔法
それは最上級「深奥」到達者、帝国指定保護対象「死神の鎌を弾く者」のみが生み出せる、極致の魔法だった。
凛と通る声とともに、訓練場に光の帯が降り注ぐ。薬師として、治癒師として村人たちに頼りとされてきた、あの穏やかなジェシカから放たれる、あまりに眩く神々しい光。
誰もが言葉を失う中、真っ先に動いたのはジェシカ自身だった。
「エドガーさん! すぐにジンの右腕を切断面に当てて、絶対に動かさないで! オプトさんはロンの身体を! コーデリア、この緋結晶を二人の口に! 失われた血は魔法ではどうにもなりません!」
矢継ぎ早の指示に、三人は迷わず身体を動かす。
武人、狩人としての経験が、こういうときにこそ最大の力を発揮する。
村を挙げての大立ち回りが始まった。遠く離れた場所で祭りに興じていた村人や巡礼者たちまでもが、空を焦がすような光に誘われるようにして訓練場へと押し寄せる。慌てた騎士団が慣れぬ規模の警備で人垣を作り、誰も近づけまいと声を張り上げていた。
だが、ジェシカの表情には、みるみる疲労の色が浮かび始めていた。ロンとジンの二人分、それも致命傷の連なりに向けて生命力を送り続けているのだ。当然だった。
「アリア」
声をかけられたアリアは、涙を拭う間もなく顔を上げる。
「私一人では、おそらくジンの腕を繋げるまでには至りません。お願いします。あの子の腕に、あなたの力を」
「わ、わたくしなんかに……そんな……力は……」
「―――大丈夫よ。アリア。あなただからこそ、できるのです」
「っ!」
自分に向け、力強くうなずいたもう一人の母の言葉に、アリアは雨の入り混じる涙を拭った。
「はいっ、やります! 見ていてください! ジェシカお母さま!」
これまで何度も師の治療を見守ってきた少女は、初めて自らの手で、大切な人の身体を繋ぎ止める側に立った。目を閉じ、これまでにない深さで集中する。
エドガーはアリアの邪魔にならぬよう、ただ黙って、切り離された腕を切断面へ押し当て続けた。
(頑張れ、アリア。お前ならできる)
「ここからです、コーデリア。お願い、できますか」
ジェシカの声に反応し、コーデリアは即座に二人に突き刺さったままの剣の柄を握りしめた。
「任せてください。ジェシカ」
みるみるうちに塞がってゆく傷。だが、このままでは剣によって傷の再生が阻害されてしまう。
安易に引き抜けば今度こそ致死量の血が噴き出し、取り返しのつかないことになってしまうだろう。
再生に合わせ、ゆっくりと引いては止め、引いては止めを繰り返す作業。コーデリアは剣士として鍛え上げた感覚、持ちうる経験すべてを動員し、二つの剣を同時に引き抜いていった。
ガラン
「ジェシカ!」
「力を上げます! 皆さん、覚醒に備えて!」
剣が引き抜かれるのを確かめ、ジェシカはさらに魔力を増幅し、一気に傷の再生を早めた。
これにロンとジンがほぼ同時に、痛みに呻きながら意識を取り戻す。
「があぁぁ……!!」
傷が急速に塞がる痛みに全身を暴れさせる二人を、強化魔法をまとったオプトとコーデリアが押さえ込む。
「繋がるぞ、ジン! 耐えろっ!」
「暴れるんじゃねぇ、この馬鹿力が!」
「覚醒した今こそ、復活の証です……! 絶対に離しません!」
村人たちも次々と駆け寄り、二人の四肢を押さえにかかる。誰もが、この村を思い、長年守り手として命を懸け、誰よりも家族を思っている男とその息子を、放ってはおけなかった。
その光景を遠巻きに見つめる村人たちの間から、ざわめきが広がっていく。
「あれが……ジェシカさんの……」
「薬師様が、あんな……」
十五年、この村で「怪我を治してくれる優しい薬師さん」として暮らしてきたジェシカの、誰も知らなかった顔。
奇跡とも言える力の顕現を、村人たちは今、目の当たりにしていた。
そして、二人の命を脅かしていた傷が、ほぼ同時に繋がりきったその瞬間。
ジェシカの膝が、糸が切れたように崩れ落ちた。
「ジェシカ!」
コーデリアがとっさに抱き止める。
両肺が擦り切れ、心臓が早鐘を乱打する――終わりの見えない坂道を、全速力で駆け続けているような感覚だった。極度の緊張と、夫と息子の殺し合いにも等しい戦いを見届け抜いた心が、これ以上彼女を立たせておくことを許さなかった。
薄れゆく意識の中で、ジェシカは微笑んだ。
「――間にあって、よかっ……た」
一言だけ零し、そのまま意識を手放す。
母の戦いも、静かに幕を閉じた。
◇
――幾日経ったのか。
重いまぶたを持ち上げると、見慣れた自分の部屋の天井が視界に入った。
(生きて……いるのか、俺は)
身体を起こそうとして、胸部、そして右腕に鈍い痛みが奔る。見れば、肩から先を包帯できつく巻かれた右腕が、確かにそこにあった。感覚は鈍いが、指先はかろうじて動く。
塞がれ、繋がった、のか。
枕元には、母上が疲れ切った顔のまま眠るように座っていた。その傍らには、コーデリアさんとアリアの姿もある。
そして、隣の寝台には。
「起きたか」
掠れた声に顔を向ければ、そこには父上が、同じように包帯だらけの姿で半身を起こしていた。
言葉が、出てこなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。殺し合った、その記憶だけが生々しく残っている。
沈黙を破ったのは、父上だった。
「まぁ……あれだ。勝ちを譲ってやらんでもない」
「……ふっ、そのざまでよく言います」
「うるせっ。げほっ。お互い様だろ」
たしか喉元に刃を突き立てた気がする。はっきりとは覚えていないが、父上の首にきつく巻かれた包帯が証なのだろう。声が出ているだけでも驚くべきだ。
父上とこんな会話を交わすのは久しぶりな気がする。長らく母上や人を介するばかりで、二人で面と向かってというのは、記憶を遡る必要がある。
「父上」
「……なんだ」
「なぜ、私に剣を授けなかったのですか」
分かってはいたことだが、あれほどの剣士である父上が、息子の俺に剣を教えない理由が分からない。長年答えをはぐらかされてきたが、俺はボルツさん、コーデリアさんの二人から手ほどきを受けてきたので、大して気に留める暇がなかっただけである。
父上は一瞬言葉に詰まったが、ここへ来てようやく観念したらしい。
「俺の剣じゃ、俺は超えられない」
「……」
父上は、俺の沈黙を咎めることなく、静かに続けた。
「だから親友に、お前の剣を託した」
――脳裏をよぎったのは、いくつもの記憶だった。
初めて木剣を握らせてくれた、ボルツさんの大きな手。舶刀の握り方を、幾度となく叩き込んでくれたコーデリアさんの声。獣道の読み方、罠の外し方、そして敵に背を向けて逃げる恥など捨ててしまえと、口うるさく教えてくれたエドガーさん、弓の弦で指を切った情けない俺を慰めるオプトさんの姿。
戦う術だけではない。狩る術、探る術、そして――逃げる術。生きて帰るための、ありとあらゆる牙を、あの人たちはずっと俺に授けてくれていたのだ。
(父上は……最初から、それを見越して……)
「けどな」
父上は続けた。声は掠れていたが、目だけはまっすぐ俺を見据えていた。
「俺は、命に代えても守りてぇもんがあったからこそ持てたが、お前には、それがねぇ」
返す言葉はない 憧れと 好奇心 ただそれだけ
「それは、俺にしか伝えられないもんだ」
伝わっています
「これしか思いつかなかった。手荒だったとは思う」
ありがたく
それから父上は、ふ、と柔らかく笑った。すべてを出し切った後の、憑き物が落ちたような顔だった。
「でかくなったな、ジン」
「……はい。父上」
ようやく絞り出した声は、我ながら情けないほど震えていた。
窓の外では、雨上がりの光が差し込んでいた。
旅立ちの日は、もう遠くない。
お読みいただき、ありがとうございました。
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