第22話 懐軽く影重く
余韻に浸る間もなく、ヴァネッサさんが「あ」と声を上げ、思い出したように両手を打ち合わせた。
「そうでした、講習が済んでおりませんでしたね! 本来は七日に一度、まとめてご案内するものなのですが、次の回はまだ先で……マスターから、今日中に済ませてやれ、とのお達しがありまして」
律儀な人だ、と思う。俺一人のために誰かの手を煩わせるのは、いくらか気が引けた。
「そこまでしていただかずとも……」
「いいんですいいんです! 何せ、マスターの直々のご指名ですから」
ヴァネッサさんが得意げに胸を張ったところへ、横合いから聞き覚えのある――否、聞き覚えのある悲鳴を上げていた声が、割り込んだ。
「では、私が」
振り返った先に立っていたのは、あの日、俺の眼前に飛び出してきた男だった。
(――たしか、「待てぇぇぇっ!」と叫んで、身を挺してくれたお方だ)
今こうして見ると、存外に整った顔立ちの、実直そうな青年だった。
「オーウェンと申します。本来であれば大勢での講習となるところ、此度はマスターのお計らいにより、貴殿お一人のために場を設けさせていただきます。……どうぞ、こちらへ」
名乗るその声は硬く、居住まいも妙にかしこまっている。あの日の粗相をいまだ気に病んでいるのか、視線もどこか泳いでいた。
案内されるまま、俺はギルド裏手の小部屋へと足を運んだ。机が一つと椅子が二つ、それに壁一面の書棚だけの、飾り気のない部屋だった。
「あの節は、世話になりました」
「……っ! いえ、あれは、その、私共の落ち度で……」
礼を言っただけなのだが、なぜか耳まで赤くしてうろたえている。妙な御仁だ。
「まずは、こちらを」
示された壁には、無星から七星までの八段階、そして孤影、集落、街邑……と続く魔物の脅威度が、一枚の羊皮紙に丁寧な字で記されていた。
「なるほど。個体の強さではなく『放っておけばどこまで被害が広がるか』という軍略の防衛線で測るわけですな」
「……さすが、話が早くて助かります」
オーウェンさんは目を丸くしてから、満足そうにうなずいた。
「個人の武勇ではなく、街や村を護るための逆算基準なのです。例えば道中であなたが倒されたという三体の魔物――あれも放置すれば街邑級、つまり防壁ごと街をのみこみかねない規模でした。芽のうちに摘んだからこそ、何事もなく済んだという証なのです」
エドワードさんの口にした『街邑級』は、この表の上の一段だったのか。騎士団の軍略座学で学んだ盤面の駒が、ようやく現実の脅威として一本の線で繋がった気がした。
「もっとも、世に魔獣と呼ばれるものの中には、幻獣、霊獣と呼ばれる、いわば別次元の存在もわずかに混じっております。人に害をなすことはございませんので、これらに等級というものはございません」
「左様な者たちも、いるのですな」
「滅多にお目にかかれるものではございません。ですが私は幸運にも一度、他の町のギルドマスターが手なずけておられる霊獣を見たことがあります。なんといいますか……人と心を通わせることができる、不思議な生き物、という感じでした」
硬かったはずの物腰に、ふと憧憬の色が滲んだ。存外、夢見がちな一面もあるらしい。
「ごほん!……ま、まぁ、こういうものもあると、知識の一つとして頭の片隅にでも置いていただければ、それで十分かと」
「ふふっ、承知しました。私も会ってみたいものです」
「あっ、笑わないでください!」
ここでお互いの肩の力が抜け、オーウェンさんの表情もまた一段と穏やかになった。普段はこういう方なのだろう。評価官であるという重圧が、この御仁らしさを削いでいたのかもしれない。
「あとは、ダンジョンについても、一つだけ」
オーウェンさんは羊皮紙の隅、小さく描かれた渦巻きの模様を指し示した。
「このマイルズの西方に川底と呼ばれる帝国屈指の著名なダンジョンがあります。実戦さながらの腕試しの場として使われることもありますが、新人の出入りには私共の管理を通していただく必要がございます」
「承知しました」
父上とエドガーさんから聞いたことがある。世界にはダンジョンという魔獣も近寄らぬ魔物の巣窟があると。それを幼い頃に聞かされたときは震え上がったものだ。それが今や腕試しの場と聞かされるのだから、世は分からぬものだ。
「あと、換金証文というものも、耳に入れておいてください。高額の報酬は証文にてお渡しすることになります。商業ギルドの窓口で現金化できますし、そのまま預けることもできます」
拠点登録という制度についても、簡単に説明を受けた。今の俺には、まだ縁遠い話だった。
「最後に、一つだけ」
オーウェンさんの声の温度が、わずかに変わった。
「登録をもって、リカルド殿は帝国臣民の籍を離れます。以後、国の庇護は及びません。寄る辺となるのは、私共ギルドのみです」
知識としては、すでに耳にしていた。それに、あの証を手のひらに受け取ったときから、薄々察してもいた。だが、いざこうして面と向かって告げられると、思いのほか重い実感を伴った。
旅立ちの日、村門をくぐったときに抱いた覚悟が、脳裏をよぎる。手にするもの、零れ落ちるもの――その双方が、今日、またやってきたということだ。
「構いませぬ」
短く、そう答えた。今更、迷う理由などない。
「以上をもって、講習は終了となります。……此度はいろいろとご迷惑を。改めて、これからよろしくお願いいたします」
深く頭を下げたオーウェンさんは、しかし顔を上げるなり、思い切ったように付け加えた。
「あの、その……。差し出がましいようですが、あの日の風、見事でした。恐ろしくはありましたが……それはそれとして」
「……お褒めいただき、恐縮です」
律儀に詫びたかと思えば、律儀に称える。忙しない御仁だ。だが、その忙しなさに、俺は妙な好感を抱いた。
「こちらこそ、世話になりました」
小部屋を出ると、日はまだ高いところにあった。ヴァネッサさんに礼を告げ、俺が次に足を向けたのは、戦利品の買取窓口だった。
荷袋の奥から取り出したのは、淡く緑がかった光を宿す小指の先ほどの粒が四つ。三つはスルトを発つ道中で仕留めたあの三体の置き土産、残る一つは、常紅樹を守り抜いた夜、根元に転がっていた魔核だ。
「新人がいきなり魔核四つかい。さすがウチを引っ掻き回すだけはあるのぉ……ほっほっほ」
「うっ……その節は、すみませんでした」
「いやいやなんの。君のような元気な子らを見るのが楽しみでここに座っとるんじゃよ」
そう言って片眼鏡で魔核をのぞき込む老爺。もちろんギルドの正式な鑑定士で、よどみない指先の動きからして、魔核の鑑定に長年携わってきたこの道の古株なのだろう。指先で粒を転がすように検分している間、妙に緊張するのはなぜだろうか。
「こりゃエンプーサじゃの。ずいぶんと色艶がよいわ」
「色艶の別などあるのですか」
「もちろんじゃ。儂らの間じゃこれを純度と呼んでおる。例えばそうじゃのう―――」
老爺いわく、魔物は傷つけば己の魔力で再生を行うが、それをするたびに魔力は消耗していくという。魔核に宿る魔力が多ければ多いほど輝きは強くなり、少なければ色はくすんで輝きは失われる。つまり―――
「こりゃあ、三体とも再生する暇も与えずにやっとるの。違うかい?」
「……僭越ながら」
「ほっほっほ。こっちのシャドウルートは多少消耗しとるが、新人にしては上出来じゃ。お主、これからも期待しておるよ。老いぼれに美しい魔核を見せておくれ」
「勉強になりました。精進します」
老爺から金額が書き込まれた紙が手渡され、その足で換金窓口へ持っていくと、素早く台の上に硬貨が並んだ。
締めて、白銀貨一枚と真鍮貨二枚。
エンプーサ三体で白銀貨一枚、加えてシャドウルート――あの木々に巣くう寄生型の魔物の魔核が真鍮貨二枚という内訳だった。逆算すれば、エンプーサは一体につき真鍮貨三枚から四枚といった相場だろうか。
街邑級の魔物一体で騎士団の小隊が駆り出される労苦を思えば、少々物足りない気もするが、物の値打ちは需要と供給で決まるのだとニットさんは言っていた。
彼の「物によればわりと高値で売れる」という言葉が、二年越しにようやく形になった瞬間だ。
俺は金を巾着に放り込み、思わず息を呑んだ。無登録のまま討伐を重ねてきた身にとって、これが初めての「稼ぎ」らしい稼ぎだった。
(感無量、とはこのことか)
気もそぞろのまま次に向かったのは、大通りの向こうに見える商業ギルドだ。冒険者ギルドよりもいくぶんか重厚な、石造りの建物である。窓口に座る几帳面な物腰の女性職員に、母上から託された布袋を差し出した。
「中身をお改めいたします」
手際よく検めた職員は、白銀貨の束と、ひときわ重い純金貨一枚を前に、わずかに眉を上げた。
「これほどの額になりますと、証文でのお預かりとなりますが」
「構いませぬ。ただ―――」
俺の今の懐具合は元々の手持ちに先ほどの換金分を合わせても、白銀貨二枚に満たない。飯の相場は大体つかめたが、この街の宿の相場までは分からない。思い切って窓口の女性に尋ねてみることにした。
「荷物や武器を盗まれて買い直す羽目になれば、かえって高くつきます。冒険者さんであれば、職人街寄りの商人宿か冒険者ギルド提携の素泊まり宿が、鍵もかかり最も割安ですよ」
「おお、それはありがたい情報です。ありがとうございます」
「いいえ。またのご利用お待ちしております」
持ち込んだ金に見合わぬ俺の質問に少し驚きながらも、女性は丁寧に答えてくれた。
助言通りなら、白銀貨二、三枚を手元に置いておけば、当面の寝床と飯の心配は要らないだろう。預けた大金の中から白銀貨一枚分を別に崩して手元に残してもらい、折り畳まれた換金証文を大事に懐へしまう。
母上が数年かけて蓄えてくれたものが、こうして一枚の紙に姿を変える様は、どこか味気なくもあり、それでいて旅の重みが凝縮されたようで、妙に感慨深くもあった。
商業ギルドを出ると、大通りには夕餉の支度を急ぐ声、店じまいを促す呼び込み、家路をたどる人々の足音が入り混じり、昼間とはまた違う慌ただしさで満ちている。
軽くなった懐と、身軽になった足取りで、俺は宿を探して大通りから枝道へと分け入った。
「……」
だが――二度、三度と角を曲がるにつれ、通りの空気は急速に淀み、薄汚れた壁の物陰から刺すような視線が絡みついてくる。
(やはり付けられているな)
商業ギルドを出た直後から背後に張りついていたかすかな足音。
気配を撒こうと路地を折れるたび、足音は減るどころか、左右の路地から数を増して挟み込むように距離を詰めてきていた。地の利はこちらにない。
大通りへ戻るべく広めの道を選んで足を速めたが――曲がり込んだ先は、高く積まれた木箱と崩れかけた石壁に阻まれた、広めの袋小路だった。
舌打ちをのみこみ、静かに踵を返す。
路地の出口を塞ぐように、粗末な武装をまとった数人の輩が、品定めするような下卑た笑みを浮かべて立ち塞がっていた。
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