第20話 木霊の詩
木立の合間を縫うように進むほど、まとわりつく空気は重さを増していく。足裏に流し込んだ魔力の律動を絶やさぬまま、俺は感知魔法を薄く広げた。
常紅樹は、そこらの木とは色からして違う。緑一色のこの森の中で、ひときわ紅く色づいた梢を探せばいい――そう高を括っていたが、鬱蒼と生い茂る枝葉の天蓋は、日の光すらろくに通さぬほど厚い。
(さて、どこまで奥へ踏み入ればよいものか)
しばらく進んだ頃だろうか。行く手の茂みが、不自然なほど静まり返っていることに気づいた。鳥の声も、虫の羽音も、ふつりと途絶えている。
舶刀の柄に手を添えたまま、俺は足を止めた。
次の瞬間、目の前にそびえる古木の幹が、軋むような音を立てて裂けた。
いや――違う。裂けたのではない。開いたのだ。まるで、そこに最初から口があったかのように。
(ほう。木も、化けるか)
驚きよりも先に、腰が沈んでいた。太い枝が鞭のようにしなり、頭上を薙ぎ払う。かわす動きに迷いはない。低く沈んだ体勢のまま踏み込み、抜き放った舶刀を振るう。
―――風断
空を裂く不可視の斬撃が、迫り来る枝を根元から刈り取った。悲鳴とも呻きともつかぬ軋みが、幹の奥から漏れる。
二の太刀を継がず、間合いを測り直す。木そのものが敵だというなら、遠慮する道理もない。
双の舶刀を逆手に持ち替え、地を蹴った。
硬い樹皮の下、脈打つようにうごめく幹。俺は舶刀に強化魔法をまとわせ、左右から一点を目がけて連撃を食らわせた。幹は真っ二つに裂け、何かの気配ごと崩れ落ちた。
静寂が、戻る。
その存在感に比べ、魔力反応が薄かった。どうにも腑に落ちないが、目先の脅威は消えた。
息を整えながら、崩れた幹に目をやる。がらんどうになった内側は、到底虫に食われた程度のものとは思えない。炭を思わせるほど黒く煤けていた。まるで、そこに何かが巣くっていたかのように。
(魔物ならば木そのものが消え失せる……それがないとなると)
この森に踏み入ったときからまとわりついていた胸騒ぎの正体。それがこれだとしたら、少々厄介なことになりそうだ。
いくらも進まぬうちに、また同じことが起きた。今度は、行く手を塞ぐように根を張った、瘤だらけの古木だった。先刻と寸分違わぬ動き――幹が裂け、枝がしなる。俺は驚きもせず、抜き放った刃で薙ぎ払った。
さらにその先でも、また一本。
さらにもう一本。
斬っては進み、斬っては進む。気づけば、俺の背後には、四本、五本と、幹の裂けた古木の骸が転がっていた。
(この森は、よほど質が悪い)
そう独り合点して先を急いだが、崩れ落ちるたびに黒く煤けていく幹の内側だけが、拭えぬ違和感として胸の奥に沈んでいった。幾百年と、ここに根を張ってきたであろう古木たちだ。誰に見とがめられることもなく、静かに朽ちていく。
(もったいない、な)
柄にもない感傷だと自嘲しつつも、足取りはいつしか重くなっていた。
六本目に行き当たったのは、木立の暗さが一段と増した頃だった。
これまでのものより一回り太い幹――否、二回りか。見上げるほどの巨木が、俺の接近を待ち構えていたかのように、ゆっくりと身じろぎした。
(これは……)
油断なく間合いを計る。裂けた幹から伸びた枝が、地を這うようにして足元を薙いだ。
速い。
これまでの比ではない。とっさに跳んでかわしたが、着地と同時に横合いから太い根が突き上げてくる。
「くっ! ―――土衝!」
とっさに噴き上げた土塊が壁となり、根の直撃を殺す。土煙の向こうで、幹がぎしぎしと軋みながら身をよじり、次なる一撃の構えを取っていた。
(同じ木の怪異のはずが……なぜこれほど質が違う)
困惑を押し殺し、舶刀を握り直す。得体の知れなさにおののくより、目の前の敵をどう斬るかだけを考えろ――それが、身に染みついた戦の理だ。
地を蹴り、枝の隙間を縫って懐へ潜り込む。幾重にも打ち込むが、分厚い樹皮を斬り裂くばかりで幹の内部には届かない。
つかの間、思案を巡らせた隙を突くように、伸びた枝が頭上から襲いかかる。
しゃがんでかわすや、今度は他方から鞭のようにしなる枝が迫り、飛び退いた後を深々と抉った。
だが、俺が引くことはない。強化した舶刀にさらに風を乗せ、身を回転させて強力な左右連撃を放つ。
―――双燕斬
風をまとう斬撃は太い幹を貫通し、さらに奥にそびえる古木もろとも両断する。轟音を立てて巨木が次々に傾ぎ、倒れた際の振動が足元を揺らした。
肩で息をしながら、俺はその亡骸を見下ろす。
黒く煤けた幹の奥――先刻までと同じ、あの空洞だ。
しかし、技の巻き添えを食らった奥の古木を見る限り、黒い空洞はない。あれが本来の木の姿であるはずだ。
脳裏に、これまで斬り伏せてきた古木の光景が次々と蘇る。裂ける幹。しなる枝。そして、崩れ落ちた後に必ず残る、あの黒い空洞。
俺の進む先に、偶然人を襲う木が連続して自生しているとは思えない。
ここでようやく、俺はある仮説にたどり着いた。
「寄生型……!」
感知魔法を大きく広げる。刹那、これまで気にも留めていなかった小さな違和感の正体を、ようやく捉えた。
崩れ落ちた幹から、蜘蛛の糸ほどに希薄な魔素の筋が、するりと逃げ出していく。行き先は――一つ。
弾かれたように顔を上げた。鬱蒼とした緑の天蓋の遥か先、木々の隙間から覗く空の色が、ほんのわずかに紅く滲んでいる。
奴は、宿を壊されるたびに、より生命力の強い木へ渡り歩いていたのだ。ならば、次に狙うのは――
求めていた常紅樹――あの怪異が最後の砦と定めた宿もまた、同じ場所だと悟った瞬間だった。
だが、あの木だけは斬れない。弁償の沙汰は、木そのものを――生きたまま連れ帰ることでしか贖えないのだ。
迷っている暇はなかった。
「間に合うか……っ! ―――迅雷!」
全身に奔る帯電の感覚とともに、視界が引き絞られるように鋭くなる。地を蹴った次の瞬間には、木々の合間を縫う俺の姿は、風そのものと化していた。
(見つけた!)
常紅樹の根元にたどり着いたとき、すんでのところで足を止めた。
巨大な幹は、まだ紅い梢を悠然と広げたまま、静かに佇んでいる。異変は――ない。
安堵する間もなく、視線を落とした地面の、木の根が複雑に絡み合う隙間の一点に、感知魔法の網がかすかな反応を拾う。
希薄な魔素の筋が、地を這うようにしてこちらへ近づいてきていた。常紅樹の樹皮に触れる、その刹那を待つ。
器を失い、剥き出しのまま地を這うその一瞬こそが、唯一の隙だ。
短弓を、音もなく引き抜く。
矢巻きから抜いた一本に、身体に帯電する雷が集中する。切っ先に宿った紫電が、バチリと唸りを上げた。
根の隙間から、黒い染みが滲み出す。
樹皮に触れる寸前。
放った矢は、迷いも軌跡も残さず、闇色の染みを射抜いた。紫電が弾け、絹を裂くような甲高い悲鳴が森に木霊する。声にならぬそれは、瞬く間に空気へ溶けるようにして消えていった。
後には、緑の光をわずかに宿す、小指の先ほどの魔核が根元に転がっている。
俺は次の矢を番えたまま、しばらく動けずにいた。
――守り抜いた。
常紅樹の幹には、傷一つない。
安堵の息を吐いた途端、迅雷の代償が全身を駆け抜けた。骨が軋み、ちぎれんばかりの筋の痛みに、思わず片膝をつく。
「……まったく、からくりが分かればこの程度の相手だったか」
軽口を叩く余力があるだけ、まだましだろう。
膝をつきながら見渡した森は、静まり返っていた。斬り伏せてきた古木たちの骸が、ここまで続く道のりに点々と横たわっている。
(済まぬことをした)
詫びたところで、朽ちた木々が生き返るわけでもない。それでも、手を合わせずにはいられなかった。
陽が沈み切る前に、常紅樹の根元に荷を下ろす。傷は浅い。手当てを終え、たき火をおこす。躍る炎を眺めながら幹に背を預けた、その瞬間――手のひらに、かすかな脈動が伝わってきた。
(……?)
気のせいかと思い、そっと樹皮に触れ直す。
確かに、ある。とくり、とくりと、鼓動にも似た温もりが、手のひらの下で息づいていた。
木に脈があるはずもない。分かっていながら、その夜はずっと、手を離せずにいた。
翌朝、目覚めて最初に考えたのは、この巨木をどう運ぶかだった。
荷車を借りる当てはなく、伐って運べば元も子もない。何より――一月という期限の中で、これほどの大木を丸ごと運び出す手立てなど、そう易々と思いつくものではなかった。
(さて、どうしたものか)
腕を組んで唸っていると、脳裏に昨日の光景がちらついた。裂けた幹。しなる枝。地を這う根。
あの寄生型の魔物は、確かに木そのものを、意のままに動かしていた。枝を伸ばし、撓らせ、根を足へと変えていた。
ならば、俺にもできるのではないか。ただ単純に、そう思った。
試しに、武器を強化する要領で、手のひらから幹へ魔力を通してみる。手応えはないが、木そのものには魔力は通じている。
「違う。もっと、別の」
風に、この身を裂かれたあの日。
落雷を目の当たりにし、その在り様におののいたあの日。
大地に、母上の温もりと同じものを感じたあの日。
一つ一つを切り取れば、何のことはない小さなきっかけ。ただ、その日以降、俺はそれらに対する感じ方、捉え方、接し方が変わった。
「安心しろ……俺はお前の敵じゃない」
――バサッ
鳥が飛び立っただけかもしれない。不意に風が吹いただけなのかもしれない。
それでもただ、一瞬だが、枝の一本が俺に応えた気がした。
力でねじ伏せるのではない。それはあの化け物のやり口だ。俺が守りたかったのは、この木の命そのものだったはずだ。
昨夜感じた、あの脈動を思い出す。
命じるのではない。問いかければいい。
脈動に寄り添うように、静かに、静かに。
根が一つ、二つ、緩やかに身じろぎした。強制するのではなく、促すように。まるで、深い眠りから覚めた者の伸びのようだった。
一度ですべてが上手くいくはずもない。根が絡まり、幹が傾ぎかけては、幾度となく魔力を引き、流し直す。日が中天を過ぎ、傾き、また昇る頃には、指先はとうに感覚を失っていた。
それでも、諦める理由にはならない。
(急ぐな。急いては、また同じ過ちを犯す)
丸一日と半日が過ぎた頃だろうか。焦れる心を鎮め、ただ静かに問いかけ続けた。
目を閉じ、
この「友人」が、大地を悠然と歩く姿を脳裏に浮かべる。
「さぁ、化け物のいない、上質な宿を用意してある」
―――共に、行こう
巨大な根の一本が、ゆっくりと地から浮き上がる。
もう一本。
さらにもう一本。
幾世代もの人の営みを超え、ただその場に立ち続けてきた巨躯が、静かに、しかし確かに、その全身をこちらへ傾ける。
そして――踏み出した。
大地を揺らすほどの一歩ではない。それでも、根から幹、梢に至るまで、常紅樹のすべてが確かに「歩いた」。紅い梢が夕陽を浴びて燃えるように輝き、はらはらと零れた葉が、まるで祝福のように肩へ舞い落ちる。
その場に立ち尽くしたまま、しばらく声も出せずにいた。
葉擦れも、軋む幹も、下草を叩く落葉も、樹冠を渡る風の音も――そのすべてが今、一つの調べとなって森に満ちていく。
「……木霊の詩」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた名が、静まり返った森に溶けていく。
(さて。この新たな友を、どうやって街まで連れて帰ればよいものか)
新たな悩みが芽生えたことに気づき、思わず苦笑が漏れた。
斬り伏せてきた古木たちへの詫びも、常紅樹を守り抜いた誇りも、すべてを吸い込んだような静けさの中で、俺はただ、目の前の奇跡に見入っていた。
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