第1話 瑠璃光
西大陸の中央にある帝都より遥か北東、辺境に位置する寒村、スルト村。
この小さな開拓村に建つ静まり返った丸太小屋の中で、ロンは忍び寄る夜の冷気を払うように、石造りの暖炉へ新たな薪をくべる。
そしてそのまま、視線を寝台で横になっている妻ジェシカに向けた。
村人としては珍しい、長袖のあつらえものの下には、炭のように黒焦げた禍々しい斑点が、そのか細い手首まで広がっていた。
幼少の頃に負った悲惨な過去、その身に刻まれた忌まわしき呪いとも言える病。穏やかに暮らせていたはずの妻の身体が、今まさに死の黒に覆われようとしていた。
ジェシカ本人は、よくここまで生きられているものだと、消え入りそうな笑顔で日々夫のロンを気遣っていた。
この病に、治療の術はなかった。
ロンは夜が嫌いだった。
そのまま妻を闇に飲み込んでしまいそうな気がするからだ。
(くっ……そ)
毎夜頭の中に迫りくる最期の時を、必死に振り払おうと立ち上がった。
そのとき――。
強烈な圧迫感がロンの胸を締め付け、呼吸もままならなくなる。
元冒険者として山野を駆け巡ってきたロンは、この事態をすぐに理解した。
「魔物!? 馬鹿な、見張りは何をしているっ!」
ロンはジェシカを慌てて揺すり起こす。
その表情ですぐに察したジェシカは起き上がり、寝室に置いてあるロンの長剣を弱々しくも胸に抱く。夫を見送る際のジェシカなりの習わしだった。
「よろしくお願いします」
そう言って剣を差し出し、ロンは力強く剣を握りしめた。
「絶対にここから出るんじゃないぞ」
「はい」
勢いよく扉を開けるロン。
そしてその瞬間に目にしたのは、瑠璃色に満たされた、見たこともない村の風景だった。
「なっ」
言葉を失い、その場に立ち尽くす。
見渡す限り、魔物は見当たらない。いつもならひとまず安心だと言ったところだが、ロンには分かる。
この震えの元凶は――
「ははっ……だよな」
見上げた視線の先。
何なのかも分からない。
長らく冒険者をしていたが、見たことも聞いたこともないモノが上空を覆い尽くしていた。
絶望と言うほかになかった。
妻を守らんと勇んでいた気もそがれ、その圧倒的な存在をなんとか見上げることしかできない。
「ロ、ロン!!」
そんな中、悲鳴のような声を上げながら、二人の村人が武器を携え駆け寄ってくる。共に村の守り手を担っている、エドガーとオプトである。
ロンは無言のまま二人を迎え、額から流れ落ちる汗もぬぐえないまま、視線は上空に向いたままだった。
「終わりだな」
「……マジで?」
「ああ、これほどの圧、感じたこともない。壊世級どころじゃない。逃げようもない」
「……マジか」
エドガーの冷静かつ残酷な言葉に、ポツポツとようやく言葉を紡ぐロン。
ロンがそう言うならと、早々に現状を受け入れたオプトは深く息を吐いた。
気の合う仲間同士、いつもの冗談交じりの何気ない会話ではない。
長く守り手として、魔物や魔獣と対峙してきた三人である。常日頃から死と隣り合わせの生活を送ってきたのだ。
だが、守り手である自分たちはそれでいいとしても、村を、村人を守るという使命が果たせないのは耐えがたいことだった。
ズゥン……ッ!
轟音とともに、村全体を覆うほどの巨大な何かが、村はずれへ降り立った。
その地揺れと地響きは村どころかこの地域全体に響き渡ったことだろう。方々から悲鳴が聞こえてきたが、この尋常ならざる光景を目の当たりにするやいなや、騒ぎも間もなく収まった。異常事態はこの村の優秀な守り手がなんとかすると皆が信じ切っているからである。
「……下りてくるなら、やるしかねぇよな。行こうぜ、ロン!」
「ああよ! オプトは逃げてもいいぞ!」
「う、うるせぇ! 剣で鳥が仕留められるかよ!」
そう言って弓を引き絞るオプトの言う通り、降り立ったそれは、瑠璃色に輝く鳥の姿をしていた。加えて、幸か不幸かその巨躯もようやくだが視界に収まる大きさになっている。
三人はそれでも敵わぬと分かってはいるものの、ただ殺されるわけにはいかないと、最大限の強化魔法で全身を覆い、猛然と瑠璃色の鳥に駆け寄った。
「うおおっ!」
ロンとエドガーはそれぞれの得物を振りかぶり一気に距離を詰める。その後ろからオプトが神速の矢を放ち、まさに二つの刃と矢尻が同時に瑠璃色の鳥に届かんとする、その刹那。
三人は、まるで何事もなかったかのように、元いたロンの丸太家の前に立ち尽くしていた。
―――は?
何が起こったのか。
三人には分からない。
転移させられたのか、あるいは夢をみていたのか。
同時に発した声に目を見合わせ、現実なのかと無言で問い合う以外に心が追い付いていなかった。
瑠璃色の鳥は口を開かない。当然声など発しない。
呆気にとられたままの三人の目を覚まさせたのは、寝室で夫の無事を祈っていたジェシカだった。
丸太家からスッと出てきたジェシカの身体は瑠璃色の鳥と同じ色の光をまとっており、生命力が失われていたはずの瞳は力強く見開かれ、その視線の先にかの鳥を映している。
わけも分からぬまま、本来なら夫であるロン、旧知であるエドガーとオプトも強大な魔物の前に姿をさらそうとしているジェシカを全力で止めたはずである。
しかし、三人は今目の前で起こっていることに何ら反応できずにいた。
これが異常事態だと判断できていない、というのが正確だろうか。
―――我が携えしは 異空の誇り高き魂 神威に触れ 滅びゆく定めの娘よ
―――我が声を聞き これを育む器となれ
―――私のような者に 子を お授けくださいますか
―――其方だけでは足らぬ 小さき勇を振るう者を贄とする
―――私は どうなっても構いません
―――おねがいです 夫を ロンを 死なせないで
ジェシカの瞳から涙があふれ返った。
あまりに一方的。自身のみに届いているのであろう声の主は、多くを語らず、語らせない。
ジェシカには子か、夫か、どちらかを選ぶことはできなかった。
ただ、ジェシカは願った。




