プロローグ 惜しみはせぬ
命が潰える瞬間、視界を染めたのは血の赤でも、夜の闇でもなかった。
ただ、白く澄み渡る「無」の領域だった。
『―――異空の武人よ。命の終わりを惜しむか』
声ではない。
幾千、幾万の人々の祈りや願い、あるいはため息が混ざり合ったような「気配」が、魂の深くに直接響いた。姿形はなく、ただそこに、世界を巡らせる大きな「理」が存在していた。
「……惜しみはせぬ」
仁之助は、魂ごと静かに否を返した。
「武士として死線を潜り、命の限りを尽くした。未練など一粒も残っておらぬ」
『異質な魂よ。お前が赴く次の世は、人間が織りなす欲望と恐怖によって、満ち引きを繰り返す場所へと変貌を遂げた異界。生き延びるためお前は何を望む。超越せし力か。理を揺るがす術か。不滅の器か』
小さく口元を緩めた。
「すべなき力は己を鈍らせ、いずれは郷党をも滅ぼす。そのような悪しき呪いは御免被る。我が欲するは宿世の習、誇り高く立つ矜持……それだけで十分よ」
『ふ……』
静かな気配の中に、ささやかな温もりが混ざった。
『矜持か。人のみが宿し得る気高さよ。すでに刻まれたるものを与えることはない。ならば、お前には小さな「縁」らを手向けよう。心を通わせる者との縁。よき鋼と出会う縁。そして……異界に漂う無色の感情と、素直に馴染む縁を』
「……ありがたく」
『だが覚えておくがいい、武人よ』
去り際、底知れぬ深淵のような冷たい気配が影を落とした。
『人間の恐怖と疑心が溢れ、世界が黒く染まる刻……お前のその矜持と紡ぎし縁が、滅びの渦中でどこまで抗えるかを見届けよう』
光が弾けた。
無限の白の向こう側から、魂を包み込むような柔らかな温もりと、慈しみに満ち満ちた優しい声が、仁之助――いや、ジンの新たな命を迎え入れていた。
―――ありがとう 生まれてきてくれて
世界はまだ、温かい。




