第16話 白石の湯煙、旅情の拾い物
差し出された茶が、いつの間にか二杯目になっていた。窓の外、橙色だった光はいよいよ赤みを増し、執務室の壁を焼くように染めている。
「――そういえば、ジン君」
茶請けの焼き菓子に手を伸ばしながら、エドワードさんがふと目を細めた。
「せっかくこうして話す機会だ。少し、昔語りに付き合ってくれるかい。ちょうど、十五年前の話でね」
「はい、ぜひ」
十五年前と聞き、俺は思わず居住まいを正した。俺の生まれた年だ。何か縁を感じずにはいられない。
「十五年前……ある日、スルトに神獣が舞い降りた、という報せが飛び込んできてね。当時、私はまだこの街の一番隊長だった。詳しい真偽も分からぬまま、マイルズはおろか帝都までもが上を下への大騒ぎだ。何しろ伝承でしか語られなかった神獣だ、吉と出るか凶と出るか、誰にも分からなかった」
「……」
俺はただ、うなずくしかなかった。生まれる前の、俺の知らない村の話。外から見た、村の話。それを耳にすることに不思議な感慨があった。
「ボルツ団長――当時はまだ団長だった――が、直々に一番隊を除いた全隊を率いてスルトへ発たれてな。その中に、コーデリアもいた」
「はい、小耳には挟んでおります」
「当時はまだ、二番隊長だったがね。あの若さで団長直々の随伴に選ばれるくらいには、すでに頭一つ抜けていたよ」
ボルツさんが、懐かしそうに目を細めた。
「危険な任だ。率いるボルツ団長と、文句ひとつ言わず付き従う団員たち。正直、街の警らを任された我々ですら、生きた心地がしなかったのを覚えている」
「――想像することすら、かないません」
「なに、案ずるようなことは何も起きなかったさ。スルトは変わらずスルトのままだった。ただ、それから幾年か経って、俺が団を退いた」
ボルツさんが茶を一口含む。
「エドワードが一番隊長から団長へ上がり、空いた椅子にコーデリアが座った、というわけだ」
「一番隊長になったばかりの頃のコーデリアは、それはもう大変でね」
エドワードさんが、悪童のような笑みを浮かべた。
「まだ二十歳そこそこの若さで、あの貫禄だ。団員たちの間じゃ、団長と一番隊長、どちらが本当の団長か分からない、なんて陰口まで囃されたものだよ」
「はっはっは! 目に浮かぶようです」
俺は思わず声を上げて笑ってしまった。分かる。あの人はそういう人だ。
流星のコーデリア。その二つ名が帝国中に轟いていた頃の話を、俺はまだ、断片でしか知らない。育ての母の名が、こうして故郷の外でも敬意とともに語られる。そのことに、俺は誇らしさと、ほんの少しの気恥ずかしさを覚えた。
「それからほどなくして、コーデリアも団を退いてしまってね。その一年後に結婚、出産さ。当時、帝国騎士団に衝撃が走ったよ。まさかあの流星が、とね。まさしく阿鼻叫喚だ。今思えば彼女らしいが、その穴を埋めるのに、私はずいぶんと苦労させられたよ」
「――さて」
ボルツさんが、思い出したように切り出した。
「そういえばエドワード。冒険者登録の講習って、毎日やってるんだったか?」
「そういえば、そんな制度もありましたね。近頃はギルド職員の手が足りず、去年から七日に一度に減らしていたような……調べさせましょう」
ほどなくして分かった日程は、昨日ようやく終わったばかりというもので、次の開催は六日後になるという。
「ということは、六日後まで登録はできぬということですか」
「こればかりは仕方あるまい。急ぐ旅でもないのだろう?」
「ええ、まぁ、それはそうですが……何やら急に肩の力が抜けたと言いますか。では、街をゆっくり見て回りながら、見聞を――――」
言い終わらぬうちに、がしりと肩を掴まれた。
「付き合え」
「――は?」
「いいよな、エドワード」
「もちろんです。団の刺激にもなりましょう。すぐに宿舎の手配を」
「え、え? お待ちを――」
勝手に決まっていく騎士団体験入団。困惑する俺をよそに、ボルツさんとエドワードさんは、特務だろうが騎士は騎士だと、実に楽しそうに笑い合っている。
……―――
「な、な、な……なんとぉっ!」
宿舎の風呂に案内された俺は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。すでに湯に浸かっていた団員たちが、揃ってこちらを振り向く。
真っ白な石で囲われた、屋内にあるとは思えぬほど広々とした湯船。村では特訓や狩りの汗と血を拭う程度で、湯に浸かるなど無縁の生涯だった。家の風呂は大きな桶に湯を張って一人ずつ入るだけの、慎ましいものだ。だがそれも母上だけの場所、という刷り込みがあり、俺と父上はもっぱら川や井戸での水浴びで済ませていた。
「す、すみません。これは、入ってよろしいので……?」
「ははは! 何をそんなにかしこまってる、遠慮なく入れよ。もしや風呂は初めてか?」
「その存在を知るのみです……」
髭面の団員が愉快そうに笑った。
「宿舎にいるのは貴族の子息もいれば、俺みたいな平民出もそれなりにいる。だが強ければ誰であろうと関係ねぇ、そういう場だ。お前さんはボルツ教官を打ち負かした男だと聞いてる。若けぇのに大したもんだ。堂々と浸かってくれ」
言われるがまま、恐る恐る湯に身を沈める。その瞬間、旅の疲れが音を立てて溶けていくような感覚に、思わず大きなため息が漏れた。
「――ふぅ……これは、たまりません」
「気に入ったか。よい顔しとる」
「はい。何と申しますか……これほどの安らぎがこの世にあったとは、正直、存じませんでした」
団員たちが顔を見合わせて笑う。
「先ほどの平民出のお話ですが……出世の速さとなると、やはり貴族のご子息のほうが早いのですか」
率直に尋ねてみる。俺自身、身分というものへの実感が乏しい分、純粋な興味だった。
「おう、正直に言や、そうだな。だがえこひいきとかそういう話じゃねぇぞ」
髭面の団員が、湯をすくって顔を拭う。
「あいつらは物心つく前から、剣術に馬術に礼儀作法にと、尻に鞭当てられるようにして叩き込まれて育ってきてるんだ。俺たちが十かそこらでようやく木剣を握る頃、貴族の坊っちゃん嬢ちゃんは馬にも乗れりゃ、字も読める、宮中での作法も心得てる。地力そのものが違う。だから最初の伸びが違うだけで、こっちだって食らいついていきゃあ、後からいくらでも追いつける」
「なるほど……」
得心がいった。強さというものは一朝一夕で生まれるのではなく、幼き日にどれだけの土台を積んだかで決まる。それは実感を伴う変わらぬ道理だった。改めて思う。俺は、恵まれていた。
「……お前さんも、綺麗な顔しといて、その歳で修羅場くぐってきたみたいだな」
髭面の団員の視線が、特に俺の胸と右腕に留まった。
「戦いに身を置く者として単純に興味がある。その無数の痕、何があったか聞かせてくれないか」
「ああ、これですか」
俺はこともなげに、全身にうっすらと残る傷痕を指さして言った。
「これらの刺痕はすべてコーデリアさんです」
「……え、こーでりあ?」
「はい。腕の斬痕と胸の傷は父上です」
「ち、ちちうえ……?」
「ボルツさんは打痕ばかりだったので綺麗さっぱり消えております。あと残るのは大爪熊の爪痕くらいで……ん、待てよ……そう考えると、ボルツさんはかなりお優しい……ということに、ならないか……?」
その当時を思い出しながら傷について語り、改めて己の身体を検める。勲章と言えば聞こえはいいが、今更ながら酷いものである。母上がいなければ、俺はとうに死んでいる。
「ありがたいことに、幼き頃より、多くの恩人に目をかけていただきました」
あやうく自問自答にふけりそうになったところで目を覚まし、慌てて笑顔で取り繕った。なお、普段仏頂面の俺が、この素晴らしい笑顔をたたえられるのも母上のおかげだ。
確かに、少々傷が多いことは自覚しているが、父上の半分にも満たないのだ――が、この笑顔が逆に、憐れみを誘ったのかもしれない。
場が、しんと静まり返っている。
「ご心配痛み入ります。もう完全に治っておりますし、動きにも一切の支障はございません」
だが俺の配慮とは裏腹に、この一言で湯殿が爆発した。
「いや、そこじゃない、そこじゃないんだよ少年!」
「今、コ、コ、コ、コーデリアさんって!?」
「ボルツさんって……あの鬼教官のことだよな!?」
「チチウエって、どこのチチウエだよ! そんな魔物……いたっけか?」
「大爪熊!? おいおい嘘だろ、お前みたいな歳でしかも一人で相手するようなヤツじゃねぇぞ!? スルトの大人どもは何やってんだよ!」
ベテラン団員と少年の何気ない会話を楽しんでいた周りの団員たちが、こぞって詰め寄ってくる。身体を拭っていた者や、頭から湯をかぶっていた者までが一斉に固まっていた。
(皆のせっかくの風呂を台無しにするわけには……!)
かくかくしかじかと説明を重ね、ようやく俺が嘘など言っていないことを信じてもらえたが、納得を得るには程遠いようだった。
「実の父に、腕を落とされて胸貫かれるって、いったいどういう了見だ! 完全に殺し合いじゃねぇか!」
「あ、いえ、それには事情が。決闘は、村を発つための条件でした。父上は本気で私を殺そうとしたわけでは――いえ、途中まではかなり本気でしたが、最後まで見届けていただけたからこそ、私はこうして今、ここにいる次第で」
弁明すればするほど、話がおかしな方向へ転がっていく気がする。だが、父上の名誉はいったんさておくとして、これだけは今すぐに正しておかねばならない。
「決してコーデリアさんの薫陶が過ぎた結果ではございません。あの方は厳しくも、慈しみ深いお方です。剣の腕はもちろん、礼節、立ち居振る舞い、そのすべてを、実の子のように仕込んでいただきました!」
「いつくしみ!? どこに!? あの一見美しいお顔の裏は……ああっ、恐ろしい! 言っとくが少年、あの方のしごきはいまだにウチらの恐怖伝説なんだぞ!」
「それはいわゆる、あれです! 愛、というものではありませぬか!?……おそらく!」
俺の剣幕に、団員たちがどっと沸いた。
「ぶはっ、もういい、分かった。律儀だなぁお前さん……。しかしまぁ、そういう話を聞くと、あの人にもそんな母性があったのかと、素直に驚くよ」
髭面の団員がしみじみとつぶやく。それが驚くところなのかと、俺のほうこそ驚いてしまう。綺麗で、優しくて、強い。あれほど素敵な方はそういないというのに。
「確かになぁ。方々から結婚の申し出が引きも切らなかったのに、片っ端から断ってたって話だぜ。当時は、その気がまったくないんだろうともっぱらの噂だった」
「凛としたお人柄でしたし、そう見えるのも道理かもしれませぬ」
俺の知らないコーデリアさんの過去が、また一つ増えていく。旅とは、こういう思わぬ拾い物があるから面白い。
……―――
その夜の食事は、肉に野菜に果物にと実に豪勢なもので、専属の料理人までいるという話には心底驚かされた。聞けば帝都周辺、とりわけこのマイルズは交易の要所として帝国内でも屈指の豊かさを誇るのだそうだ。
マイルズ騎士団、恐るべし。
(いつか母上にも、あの広い風呂を贈らねばな)
そんな益体もない誓いを胸に、俺はその夜、早々に床についた。明日からは、いよいよ本格的な文武教練が始まる。
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