第13話 二刃の凪
まぶたの裏に届く光が、まだ灰色を帯びている。
目覚めた瞬間、周囲に薄く張り巡らせたままの感知魔法の網が、変わらぬ静けさを伝えてくる。体を起こし、油布を丁寧に畳んだ。
水で喉を潤し、干し肉をかじりながら、おき火に土を被せて完全に消す。
まだ熱を持つ炭を短剣の柄尻で細かく砕いて土の中へ埋め戻す。石を積んだだけの炉を崩し、周囲に落ち葉と枯れ枝を撒いて、地面を均す。
――ジン、山ん中歩いた跡はな、次に通る奴に気づかせちゃならねぇ。獣にも、人にも、な。来たときよりも綺麗にして去る。それが山を借りる者の礼儀ってやつだ。
エドガーさんの声を思い出しながら、最後にもう一度、辺りを見渡した。大岩の張り出した窪地は、まるで誰も寝ていなかったかのように静かな姿へ戻っている。
「うむ、上出来」
荷を背負い直す前に、重心を意識して道具を詰め直した。重いものは背中に近く、低く。ニットさんの荷造りをただありがたがっていたのも、もう昔の話だ。
朝靄の残る斜面を上り、俺は轍へと戻った。
……―――
それから幾日、俺は歩き続けた。
接地の一瞬だけ魔力を通すコーデリアさん直伝の歩法は、いつしか意識するまでもなく、呼吸と同じように体へ染みついていた。踏み出す、通す、受け流す。一連の流れに、もう迷いはない。
ある朝、目を覚まして真っ先に思ったのは、胸の奥にあったはずの、あの詰まるような違和感が――綺麗に消えていたことだった。
息を深く吸っても、もう何も引っかからない。右腕を握り、開く。鈍い違和感もどこにもない。
「……そうか」
思わず、右腕に巻いたままのストールへ目をやった。アリアが編んでくれた治癒の魔法陣入りの品。もう外しても構わないのだろう。だが、外すのはなんだか惜しい気がして、結局そのまま手首まで巻き直し、旅の証として袖の下に忍ばせておくことにした。
十五年かけて育ったこの身体が、ようやく「冒険者」としての形を成してきた。そんな確かな手応えがあった。
道の景色も、日を追うごとに移り変わっていく。
鬱蒼とした山林はいつしか丈の低い雑木林に変わり、やがて風の通る草原へと開けていった。ただ踏み固められただけの道は、幾重もの車輪が刻まれた立派な石混じりの街道へと姿を変える。
行き交う商人の荷馬車、巡礼者らしき一団、腰に得物を下げた武芸者。すれ違う人の数も、日を追うごとに増えていった。
朝は水場を探して皮水筒を満たし、道中で気配を感じれば手早く獲物を仕留め、日が落ちれば野営の火をおこす前に必ず木剣で素振りをする。エドガーさんの目利き、オプトさんの弓、コーデリアさんの足運び――教わったすべてが、もう俺の一部として馴染んでいた。
「これも、悪くない暮らしだな」
誰に言うでもなく、独りごちる。旅は、思っていたよりずっと性に合っていた。
……―――
異変を感じたのは、折り返しを過ぎ、道が小高い丘陵のまばらな林に差しかかった頃だった。ふと、鳥の声が絶えている。
(……来たか)
肌を撫でる空気が粘つくように重くなり、鼻の奥に錆びた血のような臭気がまとわりつく。即座に感知魔法の波紋を広げると、下生えの奥から濁った魔力反応が三つ、――ためらいもなく、こちらへ間合いを詰めてくるのが分かった。
荷を静かに下ろし、舶刀の柄に手をかけたまま、俺は足を止めた。街道脇の下生えが、風もないのに大きく揺れる。
裂けるように木々の隙間から飛び出してきたのは、女の輪郭をした何かだった。片脚は冷たく光る青銅、もう片脚は毛に覆われた驢馬の脚。左右で違う音を立てて地を踏むそれには、目も、鼻もない。ただ頭部の下半分だけが裂けるように開き、赤黒い粘液を滴らせていた。
考えるより先に、体が動いた。
――これは、戦場の間合いだ。
どこかでそんな声がした。頭の中ではない。もっと深い場所――骨の髄か、魂そのものからだ。腰を落とし、二振りの舶刀を抜き放つ。迷いも、恐れも、挟まる隙間はどこにもなかった。
先頭の一体が地を蹴った。裂けた大口が眼前に迫る。
届くよりも、速く。
右の舶刀が弧を描き、首筋を薙いだ。
『ゲボッ!』
「まず、一つ」
切り離された頭が地を跳ね、異形の体が崩れ落ちる。
振り抜いた切っ先の先、もう一体を捉える――が、魔物は身を捩り、間合いを外した。同時にその頭上を越えた最後の一体が、青銅の脚で後ろ蹴りを叩き込んでくる。
舶刀の腹で直撃を受け流すと硬質な火花が散った。骨を軋ませるほどの威力だったが、下半身に魔力を通し、衝撃を地へ抜く――まともに受ければ、臓物が飛び散っていたはずだ。
息を継がせない。体勢を崩したと見た二体目が、大口を開けて突っ込んでくる。
「学ばんな」
その場で回り込み、大口をかわす。さらされた首筋に切っ先を突き立て、そのまま横へ引き抜いた。首が落ちる。
『ギギャーッ!』
腕とも触手ともつかぬ先端に、毒々しい緑の光が集まっていく。何かしらの魔法を放つ気だ。
だが、待つ理由はない。
一薙ぎで触手を斬り落とし、返す刃を胸へ穿つ。絶叫が響く中、そのまま斬り上げ、上半身を両断した。
断末魔はない。圧迫感が薄れ、三つの肉塊が黒い灰となって、風に溶けていった。
そのまま、数拍。
動かなかった。いや――動けなかった。
今しがた己の内側を通り抜けていった、あの凪いだ冷たさは何だったのか。何百、何千もの修羅場をくぐり抜けた者だけが持つ静けさに、ひどく、覚えがある気がした。
「……ふぅ」
肩の力を抜き、舶刀を振り払って鞘へ納める。手のひらに残る震えは、恐れのものではなかった。
振り返れば、木剣での素振りなど児戯に等しい実戦だ。だというのに、息はまるで上がっていない。
正直、己に驚いていた。この旅で初めての、魔物との実戦。遭遇は想定していたはずなのに、初めて見る敵相手に、なぜこうも迷いなく動けたのか。
鍛錬の賜物か。父上との死闘を経たからか。あるいは――
「ううむ……取るに足らぬヤツだったか」
そう己を納得させ、三体の置き土産である魔核を踏みつぶそうとしたが、ふと足を止めた。
魔物が力尽きたとき、肉体は消滅し、その心臓部となっている核、「魔核」が残される。ここが生物との決定的な違いと言えるだろう。
実はスルト村周辺には魔物はほとんど存在せず、代わりに魔獣が闊歩する珍しい村なのだそうだ。守り手たち曰く、魔物は村近辺に届く前に魔獣に狩られているという。
たまに遭遇したとしても、今のようにすぐさま駆除されてしまう。魔核は不吉とされてその場で破壊することが村の掟だが、ニットさん曰く、物によればわりと高値で売れるらしい。
手持ちが心もとないというのもあるが、冒険者を目指す以上、魔核の相場も知っておきたいところ。
俺は、淡く緑に光る三つの戦利品を背負い袋に放り込んだ。
……―――
旅立ちより十日目の朝。
緩やかな丘を越えた先、視界いっぱいに広がった光景に、俺は思わず足を止めた。
広大な平原の向こうにそびえ立つ、重厚な灰色の城壁。装飾を一切削ぎ落とし、ただ頑強さのみを追求した切り石の連なりが、威圧的なまでの迫力で街道を見下ろしている。
「これが……交易都市マイルズ」
街道はすでに石畳へと変わり、蹄の音が絶え間なく響いている。長槍を掲げた甲冑姿の衛兵、荷を満載した隊商、様々な装束をまとった旅人たち。スルト村の穏やかな静寂とは何もかもが違う、巨大な熱気と喧騒がそこにあった。
入城を待つ列の最後尾に並び、順番を待つ。その間、行き交う人たちの様相に、俺の視線はあちらこちらと忙しい。
「次。……見ない顔だな。マイルズは初めてか?」
順番が回ると、詰所の衛兵が鋭い視線でこちらを検分してきた。腰の二振りの舶刀、背の木剣、短弓に矢巻き。これだけ武器を携える者は警戒に加えやはり珍しいのだろう。
上から下を舐めるように見定められながら、俺は背筋を正し、落ち着いた声で一礼した。
「はい。スルト村より参りました」
「聖地スルトの出か……名は書けるか」
「心得ております」
「では、ここに記帳を」
差し出された帳面に名を記すだけで、衛兵の表情から険が抜け、あっさりと通行の木札を手渡された。聖地出身という看板の重みを、思わぬところで実感する。
「通っていいぞ。マイルズへよく来たな」
「ありがとうございます」
北門をくぐった先に広がる光景に、俺はまた目を丸くする羽目になった。石畳の大通りに、隙間なく並ぶ武具屋、宿屋、露店の数々。呼び込みの声、鍛冶場から響く槌の音、あちこちから漂う様々な匂い。故郷の静けさとはまるで別の生き物のような街だ。
だが、見物に浮かれている暇はない。この街に来て、真っ先に挨拶をせねばならぬ相手がいる。
幼い頃から剣を教えてくださった恩人――ボルツ・ガットラム元騎士団長、その人だ。
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