第12話 草枕の栞
宿場町を背にして踏み出すと、街道を取り巻く空気はあっという間に朝の静けさを取り戻した。腹に収めた肉串と麦平パンの温もりが、歩くたびにじんわりと熱へ変わっていくのが分かる。
俺は歩調を緩めず、体内の魔力をごく微量だけ引き出して足裏へと滑らせた。
全身を分厚く覆うような戦闘用の強化ではない。土を踏みしめるその一瞬だけ、極小の魔力を爪先から踵へと通し、地面からの反発を殺さずに次の足取りへと繋げる。
前へ急ごうと上体が前傾すれば腰を痛め、かといって直立して突っ立てば荷の重みがすべて膝へ突き刺さる。背筋をまっすぐ保ち、落ちてくる重みを関節で突っぱねるのではなく、腰の魔力に乗せて前へ前へと受け流していく感覚だ。
「むぅ……慣れるまで多少かかるな」
この歩法はコーデリアさんに教わったもの。
しかし、その本人は騎士学院時代に習ったきりで徒歩での長旅など機会がなく、加えて長距離なら馬を使う。なので、実際に使用する機会はほとんどなかったという。
うまく使いこなせるようになれば魔力の消費も最小限に抑えられるし、マイルズまでの十日などあっという間に踏破できるだろう。しかし、今の俺に必要なのは速さではなく、治癒障害を完全に克服し、この身体を隅々まで「冒険者」として作り替えることだ。
魔力の調律を一定に保ち、循環させ続けること、しばらく。道沿いに生える草の種類が変わり、青々とした苔や大ぶりの羊歯が目立ち始める。頭上を飛ぶ羽虫の数も明らかに増えていた。
(寄っておくか)
幼い頃から何度も反復してきた、狩人の教え。今では湿度の変化、沢の匂いも探れるようになっている。街道の右手の窪地に目を凝らすと、木立の奥へ続くわずかな獣道が見えた。
そろそろ昼を回った頃合いだ。朝に満たした皮水筒の水も半分を切っている。俺は轍を外れ、足音を殺しながら斜面を下った。
木々の間を縫うように歩いていくと、岩肌の割れ目から冷たく澄んだ水が湧き出る細い沢に行き当たった。
周囲に魔物はいない。安全を確かめてから、手拭いを浸して顔と首筋を拭う。冷たい湧き水が、歩行で火照った肌に染み渡るように心地いい。皮水筒を沈めて満杯に汲み直し、立ち上がろうとしたそのとき。
対岸の茂みから、かさりとかすかな草の擦れる音が返ってきた。
俺は息を止め、魔力の波紋を静かに広げる。沢を挟んで十歩ほど離れた藪の奥から、ごくごく小さな魔力反応が引っかかった。
(ちょうどよい)
気配を消したまま、背負い袋の脇から短弓と矢を一対、音もなく引き抜く。
手製の矢は三本。だが、三本も費やしていてはオプトさんに笑われる。何より、今夜また干し肉で過ごすのだけは避けたい。
――ジン、曲射も先読みも弓の醍醐味だ。でもよ、俺の答えは――
弦音を、置き去りに。
頭の中で響く師の声を背中に乗せ、弦を耳元まで滑らかに引き絞る。野兎が警戒を解き、水面へ首を下げた刹那、指を放した。
――トン。
短い風切り音の直後、乾いた打撃音が茂みの奥で響いた。地を蹴って一足飛びに駆け寄り、獲物を確認する。矢は野兎の頸椎を正確に断ち切っており、苦しむ間もなかっただろう。
「今日はしのげるな」
矢を丁寧に引き抜き、泥を拭って矢巻きへ戻す。矢羽の傷みはない。
手の中で見た目に反してずっしりと重い獲物を眺め、昨晩のひもじさを思い出して口元が緩んだ。
この旅初めての獲物だが、喜ぶのは後だ。すぐに沢の端で短剣を抜き、首元を開いて手早く血を抜く。腹を裂いて内臓を素早く取り出し、匂いで獣や魔獣を引き寄せぬよう、水場から離れた土深くに埋めて足でしっかりと踏み固めた。
エドガーさんに何度も怒鳴られながら叩き込まれた手順だが、旅先でこなすとその教えのありがたみが実感できる。
仕留めた獲物を油布で包み、背負い袋の底へしっかりと収めると、俺は水場を後にし、轍へ取って返した。
空が橙色から深い紫へと移り変わる頃、俺は今夜の寝床を探し始めた。
街道のすぐ脇で寝入るのは論外だが、林の奥に入りすぎても獣の通り道にぶつかる危険がある。背後の死角を塞ぎ、雨露をしのげ、かつ周囲の視界が開けた場所が望ましい。
街道から少し上がった小高い丘の斜面に、ちょうど大岩が張り出した手頃な窪地を見つけた。頭上の突き出た岩盤が天然の屋根となっており、夜露を防ぐにはうってつけの地形だ。
「よし、今夜の宿はここだな」
背負い袋を下ろし、肩を回して息を吐き出す。
周囲から手頃な枯れ枝を集め、太さごとに三つに分けた。大岩の壁際、煙が外へ綺麗に抜ける空気の通り道を見極めて小石で炉を組む。
ニットさんが持たせてくれた火口箱を開け、炭化綿の端に火打ち石の火花を落とすと、小さな赤い火種が宿った。
火種を細かな枯れ草で包み、息を優しく吹き込むと、パチリと小気味よい音を立てて火が立った。細い枝から順にくべ、あっという間に安定した小さなたき火が出来上がる。
「……さすがニットさんだな」
道具の質がよい。素人が火おこしに手間取って夜陰に怯えるのを見越して、一番質のよい炭化綿を詰めてくれたに違いない。
(十倍返し……いつになることやら)
恩人の顔を思い浮かべて苦笑しつつ、小型の鍋に沢の水と塩を張り、たき火の脇の平らな石の上に据えた。
短剣で野兎の皮を剥ぎ、骨を数本、先に鍋へと放り込む。その間にすべての肉を一口大に切り分け、湯の中へ滑り込ませた。さらに、荷の中から干し果実を取り出し、甘味と酸味を足すために細かく刻んで加えた。肉の臭みを消しつつ、果実の酸で肉を柔らかく煮込むためのスルト村の知恵だ。
ぐつぐつと煮立つにつれて、野性味あふれる兎肉の繊細な甘い香りと、塩と果実の爽やかな匂いが立ち込めてくる。
木匙ですくって息を吹きかけ、口に運んだ。
「……うまい!」
我ながら、滋味あふれる傑作の一碗を拵えてしまった。今日一番の収穫なのは間違いない。母上の料理には遠く及ばないが、それはそれだ。自分の足で歩き、自分の手で仕留め、自分でおこした火で作った汁物は、驚くほど五臓六腑に染み渡った。
肉を噛み締め、最後の一滴まで干しパンで拭って平らげると、腹の底からじんわりと熱が満ちていく。懐の不便さも、こうして自分の手で飯を賄えるのなら案外悪くないものだ。
鍋を砂と草で磨いて水気をふき取り、たき火の勢いを落として炭火の状態にする。煙を抑え、赤黒いおき火の熱だけを残す野営の始末だ。
大岩に背を預け、敷いた油布の上に座り直す。
懐から、母上に託された青黒い石を取り出してみた。手のひらの上で、石はずっしりとした重みを主張している。たき火の熱とも、ストールの治癒とも違う、芯のある不思議な温もりが、手のひらの奥へじんわりと広がっていった。
マイルズに着いたら、まずはボルツさんに挨拶をし、それから冒険者ギルドに足を運ぼう。あと八日ほどで俺は若き日の父上、そして母上と同じ道、冒険者となるのだ。
改めて誓いを立てると、妙に気力が湧いてきた。これもうまい飯のおかげに違いない。
「決めたぞ、俺は飯に妥協せん!」
石を懐の奥へしまい、手元に木剣を引き寄せる。
周囲の木立のざわめきに薄く感知魔法の網を広げながら、俺は心地よい疲労感に身を委ね、初めての野営の夜へと静かに目を閉じた。
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