その1 料理人編 第6話:取り返しのつかない言葉
十五年前。
小林千代子は、妊娠中にすでに胎児がダウン症であると診断されていた。医師にも家族にも早期の人工妊娠中絶を勧められたが、彼女はどうしてもその子をこの世界に産み落とす決意を固めていた。そして、「健楽」と名付けた。健康で、楽しく育ってほしいという祈りを込めて。発達がほかの子より遅れることはわかっていたが、そんなことはどうでもよかった。ただ健康で、楽しく生きてくれれば、それで十分だった。
しかし、ダウン症の子を育てる母親にのしかかる重圧は、傍目に想像できるようなものではなかった。近所の陰口、身内からの冷たい言葉、道行く人の奇異の視線、さらには時おり言うことを聞かない息子自身のふるまい。重い圧力に、それらはとどめとばかりに追い打ちをかけた。
そして、ついにその日、千代子の心は折れた。
きっかけは、ほんの些細なことだった。スーパーへ塩を買いに行くという、ただそれだけの用事である。小林健楽は、この課題に何度も挑戦し、何度も成功してきた。ところが、その日だけは、間違えて砂糖を買ってきてしまったのだ。
大したことではない。塩を買い直せば済む話だ。普段であれば千代子は、小林健楽の勇気をまず褒め、それから『もう一度行ってみようか』と励ますのだった。必要なことならば何度でも挑戦させたし、それが成功に繋がるまで、ずっと見守ってきたのである。
だが、その日に限って、普段の千代子はいなかった。もともと限界まで張りつめていた心は、この「砂糖と塩の間違い」という、ほんの小さな最後のひと押しで、音を立てて砕け散った。
「どうしてそんなにバカなの!こんな簡単なこともできないの!あんたなんか産むんじゃなかった!」
これが、千代子が小林健楽に面と向かって放った、事実上最後の言葉だった。たった三つの、衝動的に飛び出した言葉が、それまでの十五年間に積み重ねてきた激励も、称賛も、いたわりも、一瞬ですべて帳消しにした。
小林健楽は軽度の知的障害に過ぎなかったが、その三つの言葉が何を意味するかは完全に理解できた。彼は火がついたように泣き叫び、玄関を飛び出すと、二度と戻ってこなかった。彼は毎日、あらゆる場所で、いろいろな人たちから差別され、嘲笑されてきた。それでも家庭だけは、母親だけは、彼にとって唯一の、そして最後の避難所だった。その母親自身が、ほかの人たちと一緒になって彼を笑った瞬間、彼はあらゆる拠り所を失い、人間としての最後の一片の尊厳さえも、根こそぎ奪われてしまったのだった。
千代子は、すぐに追いかけるべきかどうか、一瞬ためらった。しかし、ちょっと言い過ぎただけ、大したことではない——そう結論した。息子が帰ってきたら謝ればいい。だから、わざわざ追いかける必要はない。そして、母親としての償いのつもりで、台所に立ち、健楽が一番好きなカレーを心を込めて作り始めた。
夜の七時から待ち始め、八時になり、九時になっても息子は戻らなかった。そのとき初めて、彼女の胸に、ざわめくような不吉な予感が押し寄せてきた。
その夜、炊き上げたカレーを、彼女は冷蔵庫で一週間保存したあと、ゴミ箱に捨てた。以来、毎年同じ日にカレーを心を込めて作り、それをそのまま捨てる——その儀式は、今日まで一度も途切れることなく続けられてきた。




