その1 料理人編 第7話:人生の分かれ道
小林健楽が厨房から出てきた。頭にはコック帽をかぶり、白い調理服を身に着けている。彼はカレーの皿を両手で大事そうに抱えていた。
「お母さん、これ、僕が賞をとったカレーだよ。食べてみて。」
千代子はその言葉に合わせるように、自分のハンドバッグから保存容器を取り出した。「これ、母さんが今朝作ったカレーなの。あんたも食べてくれる?」
「わあ、やったあ!お母さんがお腹のボールで病院に行っちゃってから、ずっと食べてなかったんだ。お母さんのカレー、久しぶりだあ。」
「健楽はいい子ね……母さん、これから毎日——」千代子は最後まで言いかけて、言葉を呑み込んだ。自分が健楽の前からいなくなり、元の時空に戻らなければならない現実が、喉に重くのしかかった。
「僕のこのカレーね、お母さんのをちょっと変えたやつなんだよ。師匠が言うには、審査員に外国人が多いから、日本の甘いカレーより、ちょっと辛くしたほうがいいんだって。一ヶ月もいっしょに研究して、やっと一番いい作り方が見つかったんだ。お母さんも、どうぞ。」
そう言いながら、小林健楽は千代子の手作りカレーを口いっぱいに頬張り、満面の笑みをこぼした。口のまわりはカレーソースと米粒でべとべとだ。その無邪気な姿を見つめながら、千代子は、十五年間自分を縛りつづけてきたあの儀式から、ようやく解き放たれたのを感じていた。
「健楽は賢いわねえ。ちゃんとすごい人に教えてもらう方法を考えたんだから。お母さん、あんたを産んで本当によかった。」
「あはは。あのとき僕が家出したあと、お母さんが追いかけてきて、まさにそう言ったよね。『産んでよかった』って。あの言葉、すごく嬉しかったんだあ。」
「……えっ!?」千代子は自分の耳を疑った。
「買い物に行って、塩を買うはずが、間違えてお砂糖を買っちゃったんだ。そしたらお母さん、『バカだ』とか『産むんじゃなかった』とか言ったから、僕、悲しくて家を飛び出した。でも、すぐにお母さんが追いかけてきて、ぎゅうっと抱っこしてくれて。『健楽はいい子だよ』って、『お母さんが言い過ぎたの、ごめんね』って、『産んでよかった』って言ってくれたんだ。それで泣きやんで、一緒に家に帰って、カレーを食べたの。そのときのカレーと、このカレー、まったくおんなじ味がする。だから食べてたら、あのときの言葉を思い出しちゃった。」
(もし、あのとき私が……)
千代子はそれ以上考えるのをやめた。これ以上この懊悩を抱え込むには、自分の心はあまりにも脆すぎる。
「……健楽は、まだ、お母さんのこと怒ってる?」
「あのときはちょっとだけね。でも、今は怒ってないよ。お母さん、いつも僕に言ってたよね。『あんたは遅いだけで、バカじゃない』って。だから、あの言葉は、お母さんが間違えて言っちゃったんだってわかってる。」
千代子は必死で涙を堪えながら、言った。「あんたのカレー、本当においしいわ。すごくおいしい。ごはんを食べ終わったら、一緒に家に帰ってテレビを見ましょう。……いい?」




