その3 「兄妹編」 第2話:兄は小児科医になった
「と……とにかく、別の話をしない? いい?」雪が言った。
母の由美子は目元の涙を拭いてから尋ねた。
「あっちの世界では、あなたは元気に過ごしていたの?」
雪はしばらく考えた末、やはり真実を伝えることにした。
「実は、私のいた時空では、もう4年も家を出ていて、その間一度も両親に会いに行かなかったの。本当にごめんなさいって言いたい」
「な……なんでそんなことに?」と由美子が尋ねたが、考え直して娘にも事情があるのだろうと思い、こう付け加えた。「でも、言いたくなかったらそれでいいのよ。今日はみんなで楽しく過ごしましょう」
「じゃ……じゃあ、お兄ちゃんがこの15年、どうやって過ごしてきたか教えてもらってもいいかな……」
颯はまさか自分に話が回ってくるとは思わず、まず口の中のものを飲み込み、それから箸と茶碗を置いて言った。
「この15年間、ひたすら勉強に打ち込んできたんだ。勉強が好きだからじゃない。ただ……自分の時間は妹の命と引き換えに得たものだって、ずっと思ってたから、一分一秒も無駄にできなかったんだ」
雪はそれを聞いて、この別の世界線の兄を少しでも慰めたいと思い、言葉をかけた。
「今は真相が分かったんだから、これからは少し肩の力を抜いてもいいんじゃない? たまには遊んだって悪くないよ。まさか1分1秒ずっと勉強し続けるなんて、無理だよ」
颯は微笑みながら頷いた。過去15年間、彼はゲーム機に一度も触れず、映画やテレビドラマも一切見なかった。長年にわたる唯一の娯楽は、むしろ最近同僚から贈られた一冊のギャグ漫画だった。なぜか、その漫画を読むと、亡くなった妹と繋がれているような気がして、読めば読むほど好きになった。そして今、妹の慰めの言葉を自分の耳で聞き、15年間自分を縛り続けてきた枷が、ついに解かれたのだった。
「お兄ちゃんは、今はどこで働いてるの?」
「最近転職したばかりなんだ。私立の総合病院に勤めてるんだ。」
「そ……それって、事務職か何か?」
「いや、そこの小児科医だよ。」
雪は「小児科医」という言葉を聞いて、一方で自分の兄を誇りに思う気持ちでいっぱいになったが、もう一方で、罪悪感がさらに深まった。なぜなら彼女にとって、自分の命は、本来なら素晴らしい将来を持つはずだった兄の命と引き換えに得たものだからだ。そして自分は、元の時空では、両親を誇らしめるような子供ではなかったのだ。
ついに彼女も涙をこらえきれず、心を痛める言葉を口にした。
「やっぱりこっちの時空のほうがいいよ。お兄ちゃんが生き残れたんだから。もし二人のうちどちらか一人しか生き残れないなら、死ぬのが私で正解だったって、証明されちゃったじゃない……」
皆は彼女の言葉を遮ろうとしたが、彼女は自分の気持ちを最後まで話し通すと主張した。
「ごめんなさい、心の内を全部話させてほしいの。私は小さい頃から絵を描くのが好きだったんだけど、お父さんは絵を描くことに賛成してくれなくて、『もうカメラがある時代に、誰がまだ絵なんか描くんだ』って言われてたから、ずっと自分の部屋でこっそり描いてたの。お兄ちゃんが亡くなった後、お父さんの希望は全部私一人にのしかかってきた。私が本当に勉強に向いてないから、美術学校を受けたいって相談したら、お父さんはその美術学校の名前を聞くなり、『そこはよくない』って言ったんだ。もうお父さんの話を聞きたくなくて、背を向けて部屋のドアを閉めた。。それからというもの、お父さんとは一言も言葉を交わさなかった。その後18歳になった時、すごく絵の才能がある男の子に出会って……間もなく家を出て、彼と同棲するようになったの……」
「ちょっと待って!」由美子が思わず口を挟んだ。「その男とは、今は結婚したの?」
雪は母に左手の指輪を見せて言った。
「同棲してすぐにプロポーズしてくれたの。でも、本当にごめんなさい。結婚っていう人生の一大事なのに、あなたたちを招待しなかったの。反対されるのが怖かったから……本当にごめんなさい……」
由美子は、娘が同棲していたものの、最終的にちゃんと結婚したと聞いて、ひと安心し、こう尋ねた。
「その男は、何のお仕事をしてるの?」
「元々は漫画家だったんだけど、何度か連載したけど全部打ち切りになっちゃって、それからは描かなくなったの。今は商社で働いてるんだけど、具体的にどんな役職なのかは聞いていないの。彼が今の仕事を気に入っていないのは分かっているから。この二日間、彼は海外出張に行っているから、私もこっちに来られたんだけど、ほんとに偶然だね。」
ピンポーン♬
突然玄関のチャイムが鳴った。正人は立ち上がり、一体誰だろうと独り言を言いながら玄関へ向かった。
ドアを開けると、正人は一瞬、目の前の光景を理解できなかった。
イナンナがドアの前に立っていて、困ったような表情を浮かべている。彼女の腕には三歳くらいの女の子が抱えられていた。そして女の子はイナンナの腕の中で激しくもがきながら、「ママぁ!ママがいいー!」と泣き叫んでいたのだった





