その2「指輪編」 第7話:私の臆病が、君の人生の分かれ道だった
灯里は歩みを止め、手にした二つのガンプラを胸に抱きしめると、目の前にいる、見知っているようでいて、しかしまったくの他人である望月誓を見つめた。二度、深く深呼吸をして感情を抑えてから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「彼が、離婚を切り出してきたの。私も、ずいぶん考えたわ。そして、まさに判を押そうとしたその時、あの外国人の女性が訪ねてきて、それで、あなたに会いに来たの」
「……浮気かい?」望月誓はその問いを口にしたとき、自分自身も少し緊張を覚えていた。聞きたくない答えを聞く羽目になるのを、心のどこかで恐れていたからだ。だが幸いにも、灯里が彼を失望させることはなかった。
「私は絶対にないわ。彼のほうも、おそらくないと思う。だって、毎日お店を閉めたら、まっすぐ家に帰って、部屋にこもってプラモデルばかりいじってるんだもの」
その答えを聞いて、望月誓もほっと胸を撫で下ろし、こう言った。
「それなら、何も心配はいらない。彼が、よそで変な遊びをしていないってことは、私が保証するよ」
灯里には彼が言わんとしていることが分かり、思わず吹き出してしまった。望月誓は、それからさらに続けた。
「それじゃあ、君は、まだ彼のことを愛しているのか?」
灯里は、目の前にいる、自分の夫と寸分違わぬ顔をした男を見つめた。彼女は、一言「ええ、今でも愛してるわ」と簡単に答えてしまいたかったが、かといって、嘘をつきたくもなかった。だから、正直な気持ちを望月誓に打ち明けることにした。
「私、今はもう、愛って何なのか、自分でも分からなくなってるの。何しろ、結婚してすごく長いものだから、恋愛感情なんて、とっくの昔に家族愛に変わってしまってる。でも、もし、どうしても答えなきゃいけないのなら、こう言うわ。……私は、離婚したくないの。本当に、心の底からそう思ってる」
望月誓は、ポケットから一通のラブレターを取り出し、灯里に手渡した。
「彼が、今もまだ君を愛しているかどうかは、私には分からない。でも、一つだけ、絶対に確信していることがある。彼は、かつて、君を心の底から愛していた。この書きかけのラブレターが、何よりの証拠だ。かつて君は、彼の人生で、誰よりも大切な人だったんだ」
灯里はラブレターを開き、そこに綴られた言葉を一字一句、注意深く読んだ。その表情は、時折ふっと微笑みを浮かべたり、またある時は、必死に涙をこらえているようにも見えた。
望月誓は、さらに言葉を重ねた。
「だが、私は信じてるよ。彼は今も、変わらず君を深く愛してるんだと」
灯里は顔を上げ、彼を見つめながら尋ねた。
「……どうしてそう思うの?」
望月誓は灯里の瞳をじっと見据えた。その声は少し、震えていた。
「なぜなら……なぜなら、私が今でも、君を愛しているからだ。心から、本当に愛している。この想いは、この何年もの間、ただの一度だって変わったことはない。だから、君は『かつて』彼の一番大切な人だったんじゃない。君は『今も』、そして『ずっと』、彼の一番大切な人なんだ」
灯里はもう、涙を抑えることができなかった。しかし、それよりも、ただこの問いの答えだけが知りたくて、彼女はこう訊ねた。
「じゃあ、どうして彼は、私に離婚を言い渡したの?しかも、サインも捺印も済ませてしまったの」
「彼が、つまり、私が、どうやって料理長の地位まで上り詰めたか、知っているか?」
灯里は、首を横に振った。
「あの時、先代の料理長がアメリカに移住して店を辞めたんだ。私はてっきりオーナーが自分をすぐに昇進させてくれるものだと思っていた。だが、結局、料理長のポストはずっと空席のままで、私は二番番頭として、昇給もないまま料理長の職務を引き継ぐことになった。本当に腹が立って、私はオーナーに辞表を叩きつけたんだ。だがね、辞表を出したあの瞬間、心の中では、怖くて怖くて仕方がなかった。オーナーが引き止めてくれることを期待する一方で、『なんて軽率なことをしてしまったんだ』って、すぐに後悔したんだ。……だから、あの離婚届も、きっと同じ理屈だと思う。本当は、彼も今、怖くてたまらないんだ。どうか、君がそれに判を押したりしないようにって、何度も何度も祈っているはずだ」
灯里は、泣き笑いの表情で、手の甲で涙を拭うと、こう尋ねた。
「彼が、そう考えているって、どうすれば確かめられるの?」
「簡単なことだ。彼の目の前で、不意にその離婚届を引っ張り出すんだ。そして、彼の顔から視線を外さずに、微表情を観察する。もし彼が本当は離婚したくないと思っているのなら、きっと、傷ついたり、失望したり、何かしらのネガティブな感情を表に出すはずだ。逆に、もし彼が離婚を固く決意しているのなら、その感情はもっと平静か、むしろ、やっと解放されると嬉しそうにすら見えるかもしれない」
「あなたの言いたいことは分かるわ。私、彼と結婚して25年になるもの。彼は本当に正直で、嬉しいも悲しいも、全部すぐ顔に出る人なの。……ええ、家に帰ったら、早速そうしてみる。でもね、もし、それでも彼が本当に離婚を望んでいたとしたら、私はどうすればいいの?」
「もし、君がやれるだけのことをやって、それでも彼が離婚を望むというのなら……その時は、現実を受け入れよう。君たち二人の縁は、そこまでだったということだ。……私と、私の灯里との縁は、たったの二年だけだった。それに比べて、君たちには、その二年にプラスして……ちょっと待ってくれ、さっき、君たちは結婚して何年だと言った?」
「私たちが結婚したのは、2001年の9月よ。だから今でちょうど25年くらいよ」
「2001年の……9月だって?」望月誓の声が、震えた。
「ええ、それが、何か?」
「……私の灯里は、2001年9月15日に、あのひどい交通事故に遭って、その日の夜に、逝ってしまったんだ」
灯里はしばらく考えてから、こう言った。
「私たちが結婚したのは、9月2日で、それからヨーロッパへ、まる一ヶ月間の新婚旅行に出かけたの。まさか、それって……」
望月誓は灯里の考えていることを察し、こう言った。
「……そうだ。君の夫に、君へのプロポーズをする勇気があったからだ。その勇気が、2001年9月に君を日本から連れ出して、この致命的な交通事故から君の命を守ったんだ」彼は目を閉じ、声はまだ少し震えていた。「もし、あの日、私に、彼と同じ勇気があって、私の灯里にプロポーズをしていたら、私たちは……」
ついに望月誓は、耐えきれず、両手で顔を覆って、声を上げて泣き出した。二つの時空で、二人の人生を分けた岐路が、他でもない、プロポーズを怖がった自分の臆病さにあったという事実を、彼はどうしても受け入れることができなかった。
その様子を見た灯里は、まず手に持っていたプラモデルを地面に置くと、歩み寄って、望月誓をそっと抱きしめようとした。しかし、望月誓は彼女を優しく押しとどめて、こう言った。
「どうか、やめてほしい。君は、彼の妻だ。……私の灯里は、もう25年前に、死んでしまったんだ」
灯里は地面に置いたプラモデルをもう一度手に取ると、こう尋ねた。
「もしも、そう、あくまで仮定の話として、私たちが、その……そういうことをしたら、それはやっぱり、浮気になるのかしら?」
「もちろん、浮気だ。君の夫は、この世にたった一人しかいない。それは、彼だけだ。君は、たとえ私であろうと、彼以外の男と、そういう関係になるべきじゃない。……分かってくれるね?」
「じゃあ、今夜は、私はどこで休めばいいの?外国人のあの子は、24時間あるって言ってたけど」
「イナンナさんに、君を早く元の時空に送り返してくれるように頼むつもりだ。君の旦那さんに、余計な心配をかけるべきじゃない。……君は、彼の妻なんだから、外泊なんてするもんじゃない」





