第二話 拒絶ルート①
またしても、私はあの『始まりの日』に巻き戻っていた。見慣れた自室の天井。酷い高熱の気怠さ。人生がリスタートするのは、決まって小学校の入学式を控えた一週間前だった。傍らには、やはり私の顔を覗き込んでボロボロと泣いている遥希くんがいる。
「優奈ちゃんっ……!良かった、生きていたんだね……!」
彼は泣きじゃくりながら、私に手を伸ばしてきた。けれど、二度の死の記憶――特に彼への恐怖で心がすり減って死んだ直後の記憶が鮮明な私は、思わずビクッと身体を震わせ、その手から距離を取るように布団の奥へと身を引いてしまった。
「……優奈ちゃん?」
空を切った手。拒絶されたことに、遥希くんは泣きながらも驚いたような顔をした。しまった、と思った。彼を刺激してはいけない。本能がそう告げている。
「ごめん、びっくりしちゃって……」
私は引きつった顔で、必死に言葉を紡いだ。
「まだお熱があって、頭がぼーっとしてるの。だから、急に動かれると驚いちゃって……」
「……そっか」
遥希くんは、すっと表情を消した。泣きはらした赤い目の奥に、あの死に際に見た昏い光が微かに過った気がして、私の背筋に冷たい汗が伝う。けれど次の瞬間、彼はふにゃりと、いつもの弱々しい泣き笑いの表情に戻っていた。
「ごめんね、優奈ちゃん。僕が急に大きな声出したからだよね。まだ具合悪いのに、ごめんね……」
「う、ううん。大丈夫だよ。お見舞いに来てくれてありがとう」
良かった。なんとか誤魔化せたみたいだ。私はホッと息を吐きながらも、シーツの下でギュッと拳を握りしめた。
一度目は、逃げようとして事故死した。
二度目は、不可抗力を装った執拗な接触に心を病んで死んだ。
今度こそ、生き延びなきゃいけない。そのためには、今までのようにべったりと一緒にいてはいけない。自然に、少しずつ彼からフェードアウトするんだ。
数日後。熱も完全に下がり、私は行動を開始した。すでに幼稚園は卒園している。だから私は、家から少し離れた、いつもは行かない大きな公園に行くことにした。お母さんに無理を言って連れて来てもらったのだ。小学校という新しい環境が始まる前に、遥希くん以外の友達を作っておく。それが私の立てた『フェードアウト作戦』の第一歩だった。
「ねえ、一緒に遊ばない?」
私は、砂場で一人で遊んでいる同い年くらいの女の子に思い切って話しかけた。
「あ……うん!いいよ!」
女の子はパッと顔を輝かせて頷いてくれた。彼女の名前は美桜ちゃんといって、偶然にも春から私と同じ小学校に通うのだという。
やった、大成功だ!小学校に入ってからも美桜ちゃんと一緒にいれば、自然と遥希くんと二人きりになる時間は減るはず。
久しぶりに感じる明るい希望に、私は胸を撫で下ろした。お母さんもベンチから微笑ましくこちらを見守ってくれている。
「美桜ちゃん、お山作ろっか!」
「うんっ!大きいの作ろー!」
新しい友達と笑い合いながら、やっと息が吸えたような気がした。このまま普通の、穏やかな小学生になれるかもしれない。そう安堵した、その時だった。
「――優奈ちゃーん!」
聞き慣れた、けれど今は最も聞きたくない声が背後から響いた。ビクリと肩を震わせて振り返ると、公園の入り口から、満面の笑みを浮かべた遥希くんが手を振りながら走ってくるのが見えた。その後ろには、彼のお母さんの姿もある。
「え……なんで……」
血の気が引いていくのが分かった。今日は家で大人しく本を読んでいると言っていたはずなのに。
「優奈ちゃんのお母さんから連絡が来たんだって。優奈ちゃんがここの公園にいるって聞いたから、僕も急いで来ちゃった!」
私の前に立ち止まった遥希くんは、息を切らしながらも嬉しそうに笑っている。
ああ……そうか。親同士のネットワークだ。私のお母さんと彼のお母さんは大親友なのだ。「優奈が珍しく遠くの公園に行きたがって〜」なんていう世間話が、リアルタイムで共有されてしまっていたのだ。
「ねえ、優奈ちゃん。この子、だあれ?」
遥希くんの視線が、私の隣にいる美桜ちゃんへと向いた。その声はいつものように柔らかかったけれど、瞳の奥がスッと冷たくなったのを見逃さなかった。美桜ちゃんが少し怯えたように私の後ろに隠れる。
「あ、えっと、今お友達になった美桜ちゃんだよ。春から同じ小学校なの」
「へえ、そうなんだ。初めまして、美桜ちゃん。僕、渡辺遥希。優奈ちゃんの『幼馴染』なんだ」
彼はわざわざ『幼馴染』という言葉を強調して、美桜ちゃんにニコリと笑いかけた。それはまるで、「優奈ちゃんは僕のものだ」と牽制しているかのように見えた。
「さ、優奈ちゃん。一緒に遊ぼう?僕、優奈ちゃんと遊びたくて急いで来たんだから」
遥希くんは、私の手首をギュッと握りしめた。小さな手なのに、振り解けないほどの強い力が込められている。ここで怯んで彼と二人きりになれば、またあの不可抗力が始まり、私の計画は潰れてしまう。私は強ばりそうになる頬に無理やり力を込め、中学生の精神力を総動員して、無邪気な笑顔を作った。
「うん!美桜ちゃんも一緒に、三人で遊ぼ?二人よりも三人の方が楽しいよ!」
親たちが見ている前で、しかも私からの提案だ。いくら彼でも、無下に断ることはできないはずだ。案の定、遥希くんの動きがピタリと止まった。一瞬だけ、その目が氷のように冷たく細められたのを私は見逃さなかった。けれど、次の瞬間には、彼はまたふにゃりとした笑顔を浮かべていた。
「……うん。そうだね、三人で遊ぼうか。よろしくね」
私の手を握ったまま、彼は美桜ちゃんに向かって微笑んだ。よし、なんとか二人きりは回避できた。私は胸の内で安堵の息を吐いた。しかし、その安堵が甘かったことを思い知るのに、時間はかからなかった。
私たちは砂場で、大きなお城を作ることにした。
「優奈ちゃん、僕、ここ上手くできないから手伝って」
「あっ、優奈ちゃん、服に砂が……」
「優奈ちゃん、お水汲んでこようか。僕と一緒に行こう?」
遊びが始まると同時に、遥希くんは私の隣にぴったりと張り付き、息つく暇もなく私に話しかけ続けた。私が美桜ちゃんと話そうとすると、絶妙なタイミングで割って入り、私の意識をすべて自分に向けさせようとする。
「美桜ちゃんは、そっちのトンネル掘ってていいよ。ここは僕と優奈ちゃんでやるからさ」
ニコニコと笑いながらも、その言葉には明確な壁があった。『僕達』と『美桜ちゃん』を隔てる、冷たい壁。美桜ちゃんは困惑したように私と遥希くんを交互に見て、次第に口数が減っていった。
「あ……ごめん、優奈ちゃん……!」
突然、遥希くんがバランスを崩したふりをして、私の方へと倒れ込んできた。
まただ。あの『不可抗力』。私は咄嗟に身をよじったが、彼はしっかと私に抱きつき、その手が私の太腿を嫌な角度で撫でた。
「きゃっ……!」
「ごめん!僕、どんくさくて……優奈ちゃん、怪我してない?」
心配そうに私を覗き込む瞳は、底なし沼のように濁っている。その異様な空気を察知したのだろう。美桜ちゃんが、ポロリと涙をこぼした。
「お、おかあさん……っ!」
美桜ちゃんは砂場にシャベルを放り出すと、ベンチに座っていた母親のもとへ泣きながら走っていってしまった。遠くで、美桜ちゃんのお母さんが「どうしたの?もう帰るの?」と困惑している声が聞こえる。
「あ……美桜ちゃん……!」
私が引き止めようと伸ばした手は、空を切った。
「あーあ、帰っちゃったね」
隣で、遥希くんがポツリと呟いた。ゆっくりと振り返った彼の顔には、先程までの弱々しい態度は微塵もなく、ただ冷ややかな満足感だけが浮かんでいた。
「やっぱり、三人よりも二人の方が楽しいね。優奈ちゃん」
ただ、私を独占するために、幼い子供の無邪気さを隠れ蓑にして、邪魔な存在を精神的に追い詰めて排除したのだ。その歪んだ独占欲を見せつけられた瞬間、私はこれまでの人生を思い出して、酷く怖くなった。あの昇降口で抱きすくめられた時の恐怖。病床で手を握り潰されそうになった時の絶望。
――また今回も、私は彼に怯えなくてはならないのか。
そんなの嫌だ。もう、あんな思いをするのは絶対に嫌だ。
「っ……」
気が付けば、私は大粒の涙をこぼしていた。中学生の記憶があるとはいえ、今の身体はまだ五歳だ。恐怖とストレスの許容量をあっという間に超え、私は堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「っ、うわあぁん!もう、やだよう!」
砂場にしゃがみ込み、なりふり構わず泣き叫ぶ私を見て、ベンチにいたお母さんが慌てて飛んできた。遥希くんのお母さんも一緒だ。
「あらあら。優奈、どうしたの?転んじゃった?」
お母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。その横で、遥希くんがすかさず口を開いた。
「ごめんなさいおばさん……僕がバランス崩して、優奈ちゃんにぶつかっちゃって……優奈ちゃん、びっくりして泣いちゃったみたい。僕のせいだ、ごめんなさい……っ」
瞳を潤ませて必死に謝る遥希くんに、大人たちはすっかり騙されている。遥希くんのお母さんなんて、「もう、遥希ったら気をつけて遊びなさいよ」と軽く注意するだけだ。
ちがう。ちがうのに。
「おばさん、僕、優奈ちゃんのこと――」
遥希くんがさらに親を説得するようなもっともらしい言葉を紡ごうとしたのを遮り、私は顔を激しく横に振った。
「おうち、かえる!お母さん、行こう」
私はお母さんの服の裾をぎゅっと掴んで立ち上がった。そして、隣に立つ遥希くんの顔を、ただの一度も見ることなく、彼に背を向けて家路へと歩き出したのだった。
公園でのあの一件以来、私自身から遥希くんに声をかけることは一切なくなった。
幼馴染という関係上、家が隣同士で完全に顔を合わせないようにするのは不可能だったけれど、それでも私は徹底して彼を避けた。挨拶すら母親の背中に隠れて小さな声で返すだけで、彼と視線を合わせることも拒絶した。私のその不自然な態度は、親たちの目には『ちょっとしたケンカ』『幼いゆえの気まぐれ』としか映っていなかった。だからこそ、週末になると「ほら、優奈。遥希くんが遊びに来たわよ」と、当たり前のように彼を家の中に招き入れてしまう。
親同士が集まる時は仕方なく一緒にいることになったが、その時間だけは、私にとって生きた心地がしなかった。
ある休日の午後。
リビングで親たちがコーヒーを飲みながら談笑している間、私たちは隣の子供部屋で遊ばされていた。私が一人で部屋の隅に座り、無言で絵本を読んでいると、背後からスッと影が落ちた。コツン、と。私の小さな背中に、彼が頭をもたれかかってきたのだ。
「っ……!?」
びくりと身体が強張る。遥希くんは私の背中にぴたりと張り付くように座り込み、両腕を私の腰に回して、ぎゅっとしがみついてきた。私が彼を避けていることでできた、見えない『溝』。それを少しでも埋めようとするかのように、私の存在を確かめるように、彼はずっしりとした体重を預けてくる。
「……優奈ちゃん、最近、僕とお話してくれないね」
耳元で囁かれる、弱々しく甘えるような声。背中越しに伝わってくる彼の体温が、私の身体を芯から冷やしていく。
「僕、何か悪いことした……?優奈ちゃん、僕のこと嫌いになったの……?」
すりすりと背中に頬を擦り付けながら、腰に回された腕の力が強くなる。
どう答えればいい?もしここで『嫌い』と突き放せば、彼は泣き出し、リビングにいる親たちが飛んでくるだろう。
『どうしたの?遥希くんが可哀想じゃない。優奈、仲良く遊びなさい』
大人たちはきっとそう言って、私を咎めるのだ。彼が悪者になることは決してない。私が拒絶すればするほど、彼は『可哀想な幼馴染』という仮面を被り、より一層私に依存してくる。かといって無視を続ければ、彼のこのじっとりとしたスキンシップがエスカレートしていくのは目に見えていた。
「……っ」
私は震えそうになる声を必死に堪え、絵本に視線を落としたまま、絞り出すように答えた。
「……嫌いじゃ、ないよ。ただ、本、読んでたから……」
それは、私の精一杯の抵抗であり、同時に彼への降伏宣言でもあった。
「ほんと?よかったぁ……僕、嫌われちゃったのかと思って、すごく悲しかったんだよ」
私の言葉を聞いた途端、背中の重みがふっと緩むのを感じた。けれど次の瞬間、彼は安心したように「えへへ」と笑い、さっきよりもさらにきつく、私の腰を抱きしめ直した。それは純粋な子供のスキンシップのようにも見えるが、私には『嫌いじゃないなら、ずっと一緒にいてくれるよね』という決して逃がさない呪縛のように感じられた。私が声を上げることもできず、ただ息を殺して彼が満足して離れるのをじっと耐え忍ぶしかないこの時間は、まさに地獄だった。
そんな生きた心地のしない日々を耐え抜き、ついに小学校の入学式の日がやってきた。
体育館の入り口に貼り出されたクラス分けの紙。自分の名前を探す私の手は、祈るように震えていた。
1年1組。渡辺 遥希。
……そして。
1年3組。麻倉 優菜――。
「よかった……っ!」
思わず声に出して安堵の息を吐いた。クラスが違ったのだ。これなら、彼に干渉されることはない。新しい制服、新しい教室。不安よりも、彼から解放された喜びの方がずっと大きかった。クラスが違ったおかげで、私はすぐに新しい友達を作ることができた。隣の席になった女の子と、好きなアニメの話で盛り上がり、「明日も一緒に遊ぼうね」と笑い合う。それは、私がずっと渇望していた、ごく普通で穏やかな学校生活だった。
彼がいない場所なら、私はちゃんと息ができる。笑うことができる。このまま小学校生活に馴染んでいけば、彼との接点は自然と減っていくだろう。そう信じて疑わなかった。
けれど。その淡い期待は、入学して一週間も経たないうちに粉々に打ち砕かれることになった。
「優奈ちゃん、また明日ねー!」
「うん、ばいばい!」
放課後。終わりのチャイムが鳴り、帰りの支度を終えた私は、新しくできた友達に手を振って教室を出ようとした。
その瞬間。
教室の入り口の扉に寄りかかるようにして立つ、見覚えのある影に気付き、私の足は床に縫い付けられたように止まった。
「優奈ちゃん。待ってたよ」
他のクラスの生徒たちが賑やかに廊下を行き交う中、彼だけが異質な空気を纏ってそこにいた。
遥希くんだ。
彼はいつもと同じようにふわりと笑っていたが、その目は笑っていなかった。私の後ろで手を振っていた新しい友達を、値踏みするように一瞥する。
「一緒に帰ろ?優奈ちゃん」
彼がゆっくりと差し出してきた手。その光景は、あの中学生の頃、昇降口で彼に待ち伏せされた時の記憶と鮮明に重なった。
――クラスが離れても、彼がいない世界に行けるわけじゃない。放課後になれば、彼はこうして必ず私を迎えに来るのだ。また私だけの世界を壊されるのだろうか。そんな絶望感が胸をよぎる。
けれど。
「……うん、帰ろっか」
私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で返事をした。彼が差し出した手を取ることはせず、ただ彼の隣に並ぶ。毎日教室まで迎えに来られるのは怖いし、気味が悪い。でも、クラスが離れたことで、日中の新しい学校生活はあまりにも順調だった。楽しい友達に囲まれ、彼に監視されることなく自由に呼吸ができる時間。その時間が存在するおかげで、私の心にはいくらかの余裕が生まれていたのだ。学校にいる間だけは、彼から解放される。その事実が私を支え、彼に対するかつての張り裂けそうな恐怖を、少しだけ薄れさせてくれていた。
「今日の給食、カレーだったね。優奈ちゃん、カレー好きだからいっぱいたべた?」
「うん。おいしかったよ」
「僕のクラス、おかわりのジャンケンですごく盛り上がったんだ。優奈ちゃんのクラスはどうだった?」
並んで歩く帰り道。遥希くんから掛けられる言葉は、拍子抜けするほど他愛のないものだった。新しい友達について根掘り葉掘り聞かれたり、チクチクと嫌味を言われたりするのかと警戒していたけれど、彼はただ、ごく普通の一年生のように学校での出来事を話しては、無邪気に笑っていた。
「あ、見て優奈ちゃん。あそこにたんぽぽ咲いてるよ」
彼が指差した先には、道端で黄色い花を咲かせているたんぽぽがあった。春の暖かな日差しの中、二人で並んで歩く、穏やかな下校風景。それは、まるで彼がただの大人しくて泣き虫な、純粋な幼馴染だった幼稚園の頃に戻ったかのような錯覚を私に抱かせた。
なんだ……気のせいだったのかな。あの時見せた底なし沼のような暗い瞳も、私を孤立させようとする狡猾さも、彼なりに寂しくてやっただけで、もしかしたら私の考えすぎだったのかもしれない。
彼も新しい環境で頑張っているんだ。クラスが離れたことで、彼も少しずつ私から自立してくれているのかもしれない。そう思えるほど、彼との帰り道は驚くほど穏やかで、私は張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
つづく




