第一話 ループの始まり
自室のベッドで目を覚ますと、そこには、私の顔を覗き込んでボロボロと涙を流す男の子がいた。
「優奈ちゃんっ……!良かった、生きていたんだね……!」
「え……?」
目の前の男の子を、私は知っていた。『渡辺 遥希』くん、私の幼馴染だ。遥希くんがどうして泣いているのか、分からない。けれど、その涙を拭ってあげなくちゃと思った。彼は私の『大切な家族』だから。
「はるきくん、どうしてないてるの?わたしはげんきだよ」
そう言って笑うと、遥希くんは泣きながら笑った。
私は思い出す。遥希くんは隣の家に住む男の子だ。幼稚園が一緒で、遥希くんのママと、私のママの仲が良かったから、私達も仲良くなっていった。遥希くんは、大人しくて、すぐ泣いてしまうような男の子だった。私と遥希くんは同じ五歳だけど、私はそんな彼のお姉ちゃんみたいに、いつも一緒に遊んであげていた。だから、私は彼を本当の弟みたいに、『大切な家族』だって思っていた。
もうすぐ小学校が始まるから、それがとっても楽しみだった。
「あれ……はるきくん、きょうはなんにちだっけ?」
遥希くんは答えてくれた。入学式の一週間前だ。私は嬉しくて、笑顔になった。
「もうすぐわたしたち、しょうがくせいのおにいさん、おねえさんになるんだね!たのしみ!」
私が笑うと、遥希くんもとっても嬉しそうに笑う。
「うん……うん、そうだよ。優菜ちゃんは小学生のお姉さんになるんだ。小学生になっても、ずっと一緒にいようね」
「うんっ!」
小学生になってからも、私たちは本当に、いつも一緒にいた。たくさん二人で遊んだ。とっても楽しかった。
中学生に上がってからもその関係は変わらず、クラスメイトから「付き合ってるの?」とからかわれることもあったけれど、私はいつも笑って「大切な幼馴染だよ~」と答えていた。
けれど、少しずつ、確実に変わってしまったことがある。私は昔から、何もない平坦な道で転んだり、滑ったりするようなドジなところがあった。幼稚園の頃なんて、地面に頭から突っ込んで大泣きする私を見て、遥希くんも一緒になって泣き出し、二人で大合唱するのが日常茶飯事だった。
それが変わったのは、中学に入ってからだ。私がつまずいて転びそうになると、いつの間にか背が伸び、私よりもずっと大きくなった遥希くんがスッと腕を伸ばして、私を庇って下敷きになってくれるようになったのだ。怪我をせずに済むことには、もちろん感謝している。しているのだけれど……手放しで喜べない事情があった。庇って抱き留めてくれる彼の大きな手が、私の胸を不意に揉んでしまったり、素肌の太腿に触れてしまったりすることが、あまりにも多かったのだ。勿論、故意ではないと分かっている。完全な不可抗力だ。しかし、いくら家族同然の幼馴染とはいえ、年頃になった私にとって、それは恥ずかしいことこの上なかった。
度重なるその『不可抗力』のせいで、私はすっかり遥希くんとギクシャクしてしまっていた。顔を合わせるのが気恥ずかしくて、どう接したらいいのか分からず、無意識のうちに彼を避けるようになっていった。そうして暫く、いつも隣にいたはずの『幼馴染』がいない、少しだけ寂しい日常を過ごしていた、ある日の放課後のこと。一人で下校しようと下駄箱に向かうと、薄暗い昇降口の陰に、遥希くんが立っていた。いつも優しくて大人しいはずの彼からは、なぜかヒリヒリとするような鬼気迫るものが感じられ、私は思わず息を飲んだ。
「優奈ちゃん、待ってたよ」
「え……?待ってくれなくてもいいって言ったよね?」
「……ねえ、優奈ちゃん。どうして僕を避けるの?」
静かな、けれど逃げ場のない声だった。
「さ、避けてなんか……」
「優奈ちゃんは、僕に嘘なんか吐いたことなかったのに」
一歩、彼が距離を詰める。
「僕のこと、嫌い?」
「そんなことないっ!えっと……好き、だよ」
もちろん、好きだ。遥希のことは『家族として好き』だから。でも、それを面と向かって改まって言うのはなんだか恥ずかしくて、私は誤魔化すように顔を逸らした。
「そっか。それなら良かった」
ふわりと、遥希は笑って、いつもの柔らかい声に戻る。
「じゃあ、帰ろうか」
そう言って、彼が手を差し出してきた。昔は当たり前のように繋いでいた手。なのに、どうしてだろう。その時、私の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
――その手を取ってはいけない。
本能的な恐怖だった。
「もう私達中学生なんだから。それはちょっと、恥ずかしいな」
私は引きつった笑みで誤魔化して、彼の手をすり抜けるように歩き出した。
その瞬間。
背後から強い力で腕が伸びてきたかと思うと、私は背中から、遥希くんにきつく抱きしめられていた。
「えっ!?ちょ、遥希くん……!?」
「……お願い。逃げないで」
耳元で囁かれた声は、微かに震えていた。
「僕のいない場所に、勝手に行かないで……」
懇願のようでありながら、それは決して逃がさないという呪縛のような、酷く重い言葉だった。ひんやりとした恐怖が背筋を駆け上がる。私はパニックになり、力任せに彼を突き飛ばした。
「やだっ……!」
そのまま振り返ることもせず、夢中で駆け出した。心臓が早鐘のように鳴っている。とにかく、この場から早く逃げ出したかった。
校門を飛び出した、その時。
キキィィィッというけたたましいブレーキ音が響いた。視界の端に飛び込んできた黒い塊。私はそれに全く気付かず――鈍い衝撃と共に、私の身体は宙を舞った。アスファルトに叩きつけられ、視界がぐらりと歪む。朦朧とする意識の中で最後に見たのは、後から追いかけてきて、顔を青ざめさせている遥希くんの姿だった。彼は何かを叫んでいたような気がする。けれど、暗転してゆく意識の中で、その声が私の耳に届くことはなかった。
「はっ……!」
私は飛び起きた。中学生の私が車に轢かれて命を落とす、酷く恐ろしい夢を見た、ようだ。
「優奈ちゃん……っ!」
胸を押さえて俯く私の傍から声が聞こえた。声を方に顔を向けると、そこには幼い遥希くんが泣きながら私を見つめていた。
「良かった、生きていたんだね……!」
一体これはどういうことだろう。遥希くんのこの言葉は、聞いたことがある気がする。
混乱する私の手を、遥希くんは包むように小さな両手で握った。
……あれ?私の手も、小さい……?
現状を把握しようと周囲を見渡す。そこは見慣れた自室だったけれど、置かれている家具や小物が、明らかに『昔』のものだった。窓ガラスに映る自分の顔は、どう見ても幼稚園児だ。
そして目の前には、同じように幼い遥希くんがいる。
「優奈ちゃん、お熱があって、熱くて……優奈ちゃんが死んじゃうって……僕、僕……っ」
ヒックヒックとしゃくりあげる彼。どうやら酷い風邪を引いていたようだ。以前にも風邪を引いた時に、お見舞いに来た遥希くんはパニックになって大泣きしていたんだっけ。自分の小さな手を見つめ、私は小さく息を吐き出した。
……そっか。あんなにリアルだったけど、あれは全部ただの夢だったんだ。中学生の私が車に轢かれるなんて。痛みが本物みたいだったから焦ったけれど、高熱にうなされて悪夢を見ただけだ。
そう自分に言い聞かせ、私は『夢』という逃げ道にすがりつき、再び日常をスタートさせた。
けれど。その新しい日常は、私の『夢』の中にあるものとは決定的に違っていた。
遥希くんは相変わらず私にべったりだったけれど、『夢』と違うのは、あの『不可抗力』が、小学生の今から既に始まっていたことだ。私が少しでもつまずきそうになれば、遥希くんはすぐに飛んできて私を抱きとめる。
「……っ」
その度に、平らな胸の頂が容赦なく押し潰されたり、下着の割れ目をまだ幼い指がなぞる。中学生の心を持った私の幼い身体を、容赦のない『不可抗力』が執拗に襲うようになった。
「ごめんね、優奈ちゃん。僕、どんくさくて……」
涙目で謝る彼に「ううん、ありがとう」と返すしかない。けれど、それが毎日、何度も何度も繰り返される。
これは本当に偶然なの? それとも……。
得体の知れない恐怖と、拭いきれない嫌悪感が、じわじわと私の心を蝕んでいった。ふとした瞬間に、あの『夢』の中で見た、彼に背後から抱きすくめられた時の感覚と、鬼気迫る彼の顔がフラッシュバックする。
怖い。遥希くんが怖い。気持ち悪い。
逃げ場のない恐怖とストレスは、やがて巨大な負担となって、小さな私の身体と心を確実に弱らせていった。遥希くんが近づいてくる気配を感じるだけで、反射的に身体が震えるようになってしまった。
そして。
巷でタチの悪い流行り病が猛威を振るい始めた頃、すっかり心身をすり減らしていた私は、あっさりとその病に罹ってしまった。熱が下がらず、息をするのも苦しい。ひどく悪化した病状は、容赦なく私の命を削っていった。薄れゆく意識の中で、私はまた、あの言葉を聞いた気がした。
「……優奈ちゃん。お願い、元気になって。また一緒に遊ぼうね」
「……」
「僕を置いて行かないで……!」
病床の傍らで、私の手を強く、痛いほどに握りしめる遥希くん。その瞳の奥には、幼い子供らしからぬ、昏く淀んだ執着の光が揺らめいていた。
ああ、やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。
そう気付いた時にはもう遅く。私の短い人生は、彼への恐怖に怯えたまま、あっけなく終わりを告げたのだった。
つづく




