最終話 この剣は、貴方のために
朝の橙色のやわらかな光が差し込む私室。
いつもと変わらないその光が、私の顔を照らす。
私は神殿の鐘の音でうっすらと目を開け、静かに身体を起こす。
ひとつ静かに、深く呼吸をし、自分の体がところどころ重くなっている感覚に気がつく。ただ、以前ほどの重さはない。この重さも日々自身に馴染んでいるとさえ感じる。
「王妃陛下、起床の時刻でございます」
女官が声をかけ、私は王妃の月白色のローブを身にまとう。衣が擦れる音だけがする静かな時間。
(いつまでたっても、『王妃陛下』って呼ばれるのは、慣れないな)
私は心の中で独りごちる。
ただ、以前のように心が締め付けられることは、もうない。
たぶん、私が『選んできた』から。『選び続けた』結果なのだと思う。
部屋の片隅に、以前私が使っていた剣が目に入る。
初めて剣を持った時のずしりとした感覚。手が震え、とても持っていられないとすら思ったものだ。
これで戦っていくしかないと心が冷え切り、剣を持ち戦うことが私の人生であり、そうする以外の道はないと思っていた。
守るためではなく、剣は私の生きるための手段だった。なぜなら、選べなかったから。かつての私は選ぶことさえ許されなかったから。『剣を持たなければ、私の立つ場所も、居場所もない』そう思っていた。
かつての私にとって、剣は『檻』のようなものでもあった。
剣を持って戦うことを周囲から期待され、騎士として生きることが当然であり、それ以外の道は提示されなかった。考えたことすらなかった。
『アルデンツィ家の娘』として生まれたからには剣を持ち、戦うこと、騎士として生きること、それが役割であり、生きるすべだったのだ。
私はそれを信じて疑わず、周囲の期待に応えるように生きてきた。
それを初めて疑問に思わせてくれたのは、他でもないフレンだった。
あの日……森の奥の泉で彼に再会し、訓練場でフレンが私に『俺が望んでいない』と言った時の悲痛な、訴えかける表情を、今でも覚えている。
だから私は、自分で答えを見つけた。
自分の人生を選ぶことを知り、彼の手を取ることを選び、そして剣を置いたのだ。その選択は、全く後悔していない。
剣を持たなくなった私は、自身は何も持っていない。何者でもない。誰にも守られていないという恐怖で身が震えた。剣を持たない私は、こんなにも弱く何もできない人間なのだと感じた。
それでも私は誰に言われたわけでもなく、自分の選択で立ち、ここまで選び続けてきた。何度も揺れて、折れそうになったが――退かなかった。
自分で選び続け、立ち続けた。それが私の答えだった。
ただの『騎士の娘』だった私は、今は『王妃』として立つ。代わりのいない立場。選び続け、判断を下す立場として生きる。ただ、揺れることもある。その揺れに飲まれることはできず、選び続ける。
『王妃』として立っている自分は無意識に背筋が伸び、声の高さも、言葉の選び方も、視線の高ささえ癖になってきているのだ。
いつの間にか、背筋を伸ばすことが当たり前になっていた。
十八歳のままでは、立てない場所が多すぎたから。
(フレンがいるから、私は選び続けられる。私でいられる)
彼に触れられなくとも、言葉を交わすことが少なくとも、彼は同じ方向を見ている。泉で会ったあの日から、私たちは同じ方向を見て並んで歩いてきた。姿が見えないときでも、彼は私とともにある。それは私が彼を心の底から信頼し、彼も私を信じてくれているからに他ならない。
公務で会うことが叶わない日も、ひとりで王妃として立つ時も、見ている方向は同じで、それが信じる。並んで立つということなのだと感じる。
私は今、孤独を感じることもある。震える夜だってある。でももう私は怯えて独りでいた自分ではない。だからといってフレンの存在に依存するようなこともしない。だけど、少し寂しいとも思う。それが立場で封じ込めてきた正直な気持ちだった。
夕刻、王妃の装いを解いた私は、私室の中で自身の剣を手に取り、布を取り出してくすんだ銀色のそれを磨く。決して錆びないように。この剣は手に取るものではない。私の心そのものであるからだ。
「……ルエリア?」
後ろからフレンの声がする。ゆっくりと私が振り向くと、彼は愛おしそうに私とそれを見つめた。
「……貴方がいたから、私はここまで来られた。ここに立てている。どんなことがあっても、貴方は私をただ、信じてくれた。だから並んで生きていこうって、決めたの」
彼が、ゆっくりと私の隣に立つ。
「それは俺も同じだ。ルエリア、君が傷つけられた時……俺はすべてを壊してしまいたいと思った。ただ、君を傷つける全てのものから守りたいと思っていた。君を失うことだけを恐れていた。それでも……君が望んでいないことを、俺の選択にしてはいけないと思った。信じていたから、こうして並んで生きていける」
それを聞いて、私は頷き、彼の方を見る。
夕刻の静かな光が、窓から差し込む。
「――私が貴方と一緒にいるのは、守られたいからじゃない。一緒に生きていけると思ったから。生きていきたいと思ったから、一緒に並んで、立って生きていけると思ったから」
彼の瞳が震え、そして、やわらかく微笑む。
(……ああ、この人を選んで、よかった。あの時、共に生きることを選んで、よかった)
彼の微笑みを見て心の中でひとり呟く。
私の頬がふわりとほころぶ。
ふたりきりになると、不思議と声が戻る。
王妃でも、騎士の娘でもない、ただの十八歳のままで、息ができる。
「……でもね、たまには一緒にいたいって、思うんだ。離れていても一緒にいるってわかってても、触れていたいの」
私は、少し膨れながら言う。ふたりの時は、ただのルエリアでいたい。それも正直な気持ちであって、立場という仮面を脱ぎたい、ありのままでいたいと思ってしまう。背伸びした私を、全部脱いでしまいたいって、思う。
「……俺だって、ルエリアの前ではひとりの男でいたい。王でもなく、ただのフレンとして。ひとときだって離したくない」
私たちは、それぞれの立場が背伸びをさせてきた。せざるを得なかった。ふたりの時だけは、背伸びも、仮面もいらない。ふたりきりになると、肩の力が抜ける。言葉も、姿勢も、世界に向けたものではなくなる。
ここでは、背伸びをしなくていい。
二十二歳のフレンと、十八歳の私のままで、呼吸ができる。
ふと、私たちの手が触れ、思わずふたりで目をそらす。
私たちは、ふたり同時に、ふっと照れたように笑う。
私たちにとって、おそらく初めて芽生えた感情。立場も、仮面も気にしないふたりだけの時間。
それがとても貴重なものだと、この立場に立って改めて気付かされる。
ふたりだけの部屋で、私たちはいつもより雑にソファに腰を下ろす。
一緒に、ため息をつき、そして、笑い合う。
フレンが、ふと壁に掲げてある私の剣を見て、こぼす。
「本当に、後悔してないか? 俺と一緒にいて」
私はふっと笑う。
「……してるわけないでしょ。私が決めたんだから。剣を置いてフレンと並んで生きるって。これからも選び続けていくの。貴方と一緒に」
フレンが視線を落とす。
「……不安だった。ずっと無理させてるんじゃないかって」
「無理してるのは、フレンもじゃない? 私だって不安だよ。でも、こうやって並んで、選んで、生きていくんじゃない?」
森で再会したあの日から、何があってもふたり並んで、選択して生きてきた。それはこれからも変わらない。
選んだ道を、信じて生きていく。そして、私たちは選び続けると決めた。『王』と『王妃』としての前に、ふたりの選択として。
お互いを信じているから、並んで歩いて行ける。信じているから、選ぶことを恐れない。
王妃として立つとき、私は十八歳でいられなかった。
フレンもまた、二十二歳であることを、どこかに置いてきていた。
背伸びをしなければ、立てなかった場所がある。
それは誇りでもあり、同時に重さでもあった。
今の私は剣を置いた。部屋に掲げられた剣は、もう誰にも向けられることはない。しかしそれはいつもくすんだ銀色をし、佇んでそこに『在る』。
かつて私を縛っていた剣は、今は私の手にはない。それは私の選択の象徴として存在する。剣は、選択するためのものとなった。
フレンとふたりで、私の剣を見つめる。
かつて私は剣を取った。家に縛られて怯えていた私は、剣を置き、戦うための剣ではなくなった。
私は、剣を見て微笑む。この剣があったから、私は選ぶことを知り、フレンとともに人生を切り拓いて、選んでこれたのだから。
そっと、彼の手を握り、お互い頷きあう。
「あの頃ね、正直、周囲から騎士になることを当然のように期待されて、私もそれが当たり前だと思ってた。森でフレンに会ったあの日から、私は自分の人生を、選んできた。そして、ここにいる」
彼はゆっくり頷く。
「俺も、森でルエリアに会った日、この年齢で王位を継げって言われて……正直怖かった。ルエリアが俺を選んでくれたから、俺はそれに応えよう、守ろうって最初は思ってた。でも、ルエリアは俺より強くて、ずっと先にいるような気がして――並んで立とうって、必死だった」
私は首を振る。
「……強くなんてなかったよ。必死についていこうってしてた。フレンがいるから選び続けられたし、折れずにいられた。どんな時も、一緒に選んでくれたから」
そっと、私は剣に触れる。
もう手に取ることはない、それでも――この剣は、私の人生だった。
戦うためでも、縛られるためでもない。
選ぶことを、諦めなかった証。
私は、彼の手を握る。
指先があたたかくて、ふたりで並んでそばにいることが現実だとわかる。
「ね、フレン」
彼がこちらを見る。その瞳はとてもあたたかく、優しい。
「この剣はね――もう、戦うためのものじゃない」
私は、少しだけ笑う。ありのままの『ルエリア』の声で。
「この剣は、貴方のために選んできた、私の証」
フレンは一瞬驚いたように目を瞬かせて、それから、困ったように――でも、とてもやさしく笑った。
「……それなら」
彼は私の手を、ぎゅっと握り返す。
「俺は、君の隣に並んで立つため、王になったんだ」
窓の外で、夕暮れの橙色の光がゆっくりと沈んでいき、夜を告げる鐘の音が、静かに届く。
世界は変わらず、今日も続いている。
明日になれば、また私たちは『王』と『王妃』の役目が待っている。世界は止まらない。
ただ、今この部屋にいる私たちは、王でも、王妃でもない。
ただの二十二歳のフレンと、十八歳の私のままで、私たちは並んで、息をする。
それだけで、今は十分だった。
ふたりで並んで、信じあえる、それが一番あたたかな心地よい空気だった。




