64.王として、夫として
執務室で、フレンは時間と責務に追われていた。
忙しなく彼の手はペンを動かし、紙の擦れる音が続く。合間に差し込まれる臣下からの報告。彼の五感は休まる暇が無いほど、時間の感覚がなくなるほど忙しなかった。
王として判断は早く、迷いも見せない。
(息をつくひまがないな……)
彼はいつのまにか手の感覚がなくなっていることに気づくが、書類は山のようにあり手は勝手に動いてしまう。臣下からの報告は同じ文言を何度も聞いた気がする。
彼は忙しなく動いているうちにいつの間にか息をする感覚を忘れている気がした。その手は気づけば、ずしりと重く、だるさが残る。僅かに訪れる合間に、彼は目を閉じる。
(王としての判断に、迷いはなかった。ただ、それが『生きている実感』かどうかは、別だった)
そうしている間にも臣下が報告にやってくる。それを瞬時に判断を下し、迷いを見せない。手の感覚は段々と失われていく。
目は霞み、一瞬考えを止めそうになるが、周囲がそれを許さなかった。
ふと視線を外し、彼は窓を見る。バルコニーにルエリアが立っている。ローブは正式なものより軽く、王妃として凛と佇んでいるが、その背筋の伸ばし方だけは、戴冠式の日と同じだった。しかし最近、彼女は手すりに何度も手を当てるクセが有るのを彼は見抜いていた。
ふとした動きは以前と変わらず、くるくる動く彼女から目が離せない。
守ると決めたわけじゃない。もう彼女は守られるだけの存在じゃない。
それに並ぶと決めただけだ。
しかし、彼の視線は、ルエリアを探してしまうのだ。
彼女の時折見せる寂しそうな表情も、凛とした表情も。動きのひとつさえも見落としたくない、離したくないと思うが、それでも、立場がそれを許さない。
(ルエリア……最近よくバルコニーに立っているな)
バルコニーからは城下町がよく見え、景色がいい。彼女はそこで自分を確かめようとしているのだと、フレンは理解している。ルエリアは強く見えても、まだ成人したばかりの少女の面影を残している。そんな彼女に選ばせてしまったとも考えないと言ったら、嘘になってしまう。
彼はふと目を閉じる。
戴冠式で世界と切り離されたよう波のうったような静けさ、時間が止まったような感覚を思い出したかのように。
(俺は……正しい王にはなれない。ただ、逃げずに選び続けるだけだ)
フレンが揺れている時も、ルエリアは凛として揺れずにいた。自分より先に王妃として立っていた。
彼女は強い。少なくとも自身の前では強くあろうとする。
フレンは視線を落とし、悩む。
自身は彼女に恥じない王か、夫か。
それ以前に人として恥じない人間であれているか。
(彼女は王妃である前に、ひとりの人間として自分の道を選び、立っていた。――その背中を見て、俺は王になると決めたんだ)
執務室から出て、フレンは廊下を足早に立ち止まらず歩く。バルコニーの方からルエリアが歩いてきた。彼は、ちらりと彼女に視線をやる。
「ルエリア……無理は、するな」
「あなたもね、フレン」
ただ、それだけの短い会話。触れられない距離で、あえて引き留めることもしない。でもただそれだけでわかる。彼女の気配だけで触れられなくとも『ここにいる』と確認できる。
触れたいが、触れられない。そんな時間でも、ふたりにとっては心だけはそばにいる、見えないけれど、確かに繋がる強固な絆のようなものがある。
『王』と『王妃』として立つまで、目を背けたくなるような困難や危機を乗り越えてきた彼らの信頼は誰にも崩すことができないくらい、硬いものとなっていた。
彼が国王でいる理由、それはもちろん国のためであり、民のためでもある。それよりも、彼が彼でいるために。
(ルエリアが、ここに立つと選んだから。だから俺は王として立つ)
また彼は執務室に戻り、机に向かう。
ただ先ほどの感覚より呼吸が戻り、落ち着いて書類に向かう。
王として、忙しない毎日は続いていく。
彼はまた手を止めずに机へ向かう。そして、心の中で再度思う。
(俺の王としての毎日はこれからも続いていく。だが――俺はもう独りじゃなかった)
彼は、ふっと微笑んだ。
それは、臣下に向ける王の笑みではない。
ただひとりの人間として、浮かんだ微かな笑みだった。




