61.アルデンツィ家の雪解け
戴冠式から数日が経った。神殿の鐘が、今日はもう特別な意味も持たずに鳴っていた。朝の橙色を帯びた光が差し込み、庭園の花は今日も静かに風に揺られている。
——世界は、何事もなかったかのように続いている。
「王妃陛下、起床の時間でございます」
仰々しく聞こえるが、この声はラヴィニアだ。王妃となっても、彼女は変わらずに私と一緒にいてくれる。彼女の存在が私を『ルエリア』としてとどめてくれる。
「ラヴィニア? どうぞ、入って」
微笑んだラヴィニアがゆっくりと入ってくる。彼女の動きに合わせて、緑色の髪がふわりと揺れる。
「おはよう。王妃として……調子はどう?」
私は首を傾げる。
「実感はない。けど、なんかしっくり来ている感じはある、かな」
ラヴィニアはやわらかいトーンで、冗談ぽく続ける。
「王妃陛下、って呼ばれ続けるの、慣れた?」
私は少し考えてから、首を振った。
「……慣れたくは、ないかな」
私がそう言うと、ラヴィニアがふっと笑う。
ラヴィニアは窓辺に行き、窓を開けると少し冷たい十一月の朝の風と緑の香りがふわっと香る。
「……今日は、叔父様と叔母様が来られるみたいよ」
戴冠式以来、というか結婚式以来、両親と顔を合わせる機会があまりない。今日は久々に来てくれるという。『王妃と騎士』としては顔を合わせることはあっても、『親子』として会うのは久しぶりだ。母はたまに城で退位されたお義母様と話に来ているみたいだけど。
私はやわらかく、ゆっくりと頷く。
「本当に、父さん、母さんと親子として会うのは、久しぶりかも」
コンコンと扉を叩く音がする。
ラヴィニアがゆっくり扉を開けると、そこには両親がいた。
父が一歩前に出て敬礼をしそうになるが、止める。
私がふっと笑うと、父が照れたように、口を開く。
「……ついいつもの癖で、な。……親子として会うのは久しぶりだから」
「父さん、今日の私は『王妃』じゃないよ。『ルエリア』だよ」
私は今日、王妃のローブも着ていなければ王冠もない。髪も下ろしている。
「……随分と、遠くに行ってしまったような気がしてな」
私は首を振る。
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
近づいたはずなのに、まだ埋まらない距離が確かにある。
それでも——手を伸ばせる場所には、両親の存在がもう戻ってきている。
そして母が、ゆっくりと話す。かつての冷たさはもう、ない。あたたかな表情をしている。少し、目が揺れている。
「……本当に、あなたは強くなった」
母の言葉に、胸が熱くなり、私の視界も少し滲みかける。
かつての母の言葉が頭をよぎることもあるが、今の母は、本当に心の底から笑っている気がする。ずっと続いていた呪いのようなわだかまりも雪解けのように溶けていく。もう、家の縛りもすぅっと消えていっているのを感じる。
少しずつ、こうやって時間は動いているのだ。家に縛られていたからこそ、私は剣を持ち、選ぶことを知り、ここまで来たのだと感じる。
私は母に向けてそっと頷く。母も、やわらかな笑顔を向ける。
父に視線を向けると、父も頷く。
それはとても暖かな時間で、私の心をそっと照らしてくれた。
王妃としての私ではなく、ルエリアとして息ができるこの時間が、これからの私を支えてくれる気がした。




