60.新しい世界へ
冠の縁が、こめかみに当たり、ひやりと冷たさが走る。
重さが、現実味を帯びて、私の首筋がきゅっと締まる。
一瞬呼吸が浅くなるが、ひとつ深く呼吸し、調子を戻す。
ふっと礼拝堂の空気がずしりと重さを増す。さっきまでの刺すような視線はもう感じず、ただ、時を待っているかのように重く、何かを押すような空気。
少しずつ、歯車が、カチリ、カチリと一段階ずつ噛み合っていく。
コツリと杖が床を打つ音がする。伯父様――いや、神官長の杖が床をうち、それを合図に時間の歯車が噛み合い、現実に戻ってきた感覚を肌で感じる。隔てていた空間の膜のようなものが破られた、そんな感じだった。
私は視線を動かさずにフレンを探す。フレンの息遣いと気配はしっかりと私の隣に存在していた。私たちは触れ合わなくても繋がっている。そう感じるには十分で。彼の息が少しずれるのも、戻るのも感じられた。
神官長が一歩前に出る。
声が反響して、今まで聞き覚えのある『セシリオ伯父様』の声ではなかった。それは私たちが『伯父と姪』から『神官長と王妃』に変わったことを確かに意味していた。
神官長が、声を上げる。
「今日ここで誓うものは、私情ではない。――王の誓いは、民と国の前に置かれる」
古びた巻物が開かれ、神官長の宣告が始まる。
「沈黙が、答えを待っていた。王とは、祝福の中で生まれるものではない。問いの前に立ち、なお退かなかった者に与えられる名である。世界は、この二人に問いを投げた。――迷いを、恐れを、失う可能性を。そして今、答えは言葉ではなく、ここに立ち続ける姿として示された。よって、神殿は宣告する。その沈黙を越えた者たちを、王と王妃として」
フレンが一瞬喉を鳴らし、唇を一瞬結ぶ。
指先はわずかに震えているが、声の揺れは、もうなかった。
「国の選択の結果を、我が責として引き受ける。迷いが生まれた時、逃げずに立つ」
「選択とは、切り捨てるものではない。見捨てないよう、選ぶものである」
一瞬、祈りの歌と重なり、彼の言葉が霞む。一瞬私達の心が重なったように思え、ふわっとあたたかくなる。
ひとつ呼吸をおき、彼の声が一段低くなる。決意を固めたように。
「――我は誤る。それでも、誤りを認め、改める者である!」
礼拝堂が再び波打つように静けさを取り戻す。神官長の衣の擦れる音がし、視線が私のもとへ向けられる。
少し空気がひやりとし、冠の縁が食い込んでわずかに痛い。
私はじわりと流れる手のひらの汗を感じ、まっすぐと立ち、紋章の存在を感じながら、口を開く。
「王妃と呼ばれる日々の中でも、我は我を失わぬ。名は変わっても、選びは変わらない」
騎士団の強いだが、温かみのある威厳の視線、値踏みするような魔導師会の貴族の視線、そして、神職たちが祈るような視線で私を見る。
一瞬、母が視界に入る。騎士になることを期待され、それ以外の道は許されなかった日々。私は、静かに、強く続ける。
「声を奪われた者を、無かったことにしない。――沈黙を強いられた者に、沈黙だけを返さない」
横で、フレンの息遣いが聞こえる。確かにそこにいる気配が、触れられなくとも感じる。
「我は王の影に立たぬ、王とともに、世界へ立つ」
神官長が祭壇に捧げてあった巻物を取り、広げ、印章の押される鈍い音がする。
そして、ステンドグラスの光がフレンの冠に反射する。
フレンは、微動だにしない。
神官長の声が礼拝堂に反響する。
「ここに新たな国王、フレン・デ・ヴァローツァを宣告する」
続けて神官長の声がこだまする。
「ここに王妃、ルエリアを宣告する」
私は一瞬、自分の体がばっさりと切られた感覚だった。すでに『アルデンツィ家の娘』ではないのだ。呼び名の変わった寂しさで胸が一瞬軋む。それと同時に初めて冠が馴染んだ。
『私』は一瞬消えてしまったのかとぐらりとしたが、私はここに立つことを選んで王妃となったのだ。冠の重みと左手の指輪は私が『王妃』であることを示し、胸元の紋章が光を放たなくなったのが自分の立ち位置の変化を教えてくれる。
空洞が埋まるかのように祈りの歌が礼拝堂に少しずつ戻ってくる。だんだん近づく感覚の歌声に、これは現実なのだと感じた。
神官たちが祈りの言葉を告げ、香炉の煙が一段と濃くなる。
そして、騎士団側からは敬礼が捧げられる。父――騎士団長の肩はわずかに震え、兄は複雑な表情をし、母はやわらかな目で見ている。
魔導師会からの拍手はまばらだ。まだ私は『認められていない』のかもしれない。小声で何かささやきあっている者もいる。視線は何かを推し量るような目線で私をなめるように見る。
そして、神殿の鐘が重く響く。
二回目の鐘が鳴った時、私の全身に響き渡る感じがした。
私たちは歩き出す。触れない距離のまま。
これまでの世界にはもう戻れない。ただ、フレンと私の息遣いがひとつになって、確かに私たちは繋がっているのだと実感する。それが、私の心をあたためてくれる。
神殿の空気が、ゆっくりと私たちを包み直す。
拒絶でも、祝福でもない――受け取られた、という感覚。
冠は重い。けれど、揺れない。
私たちは、世界の前で『私たち』になった。




