56.戴冠前夜、包まれる時
照明を少し落とした寝室に、しんとした静かな時間が波打つ。明日は戴冠式だというのに私は眠れず、窓から遠くに見える神殿の灯りをぼうっと見ていた。
『王太子妃』としての自分にもまだ慣れていないのに、明日からは私は『王妃』になる。『ルエリア』としての私はどこにいったのだろうか。
ここまで来たのも、自分で選んできた結果だ。剣を置き、フレンの手を取ることから始まり、色々あった時も、選んできた。『公』に身を置く立場になるほど『私』個人としての輪郭が曖昧になる。でも、私はこの道を後悔はしていない。
私は左手を顔の前にかざす。金の装飾の指輪が『妃』としての私なら、『ルエリア』としての私は――ふと、視線を落とすと、胸元の百合の紋章が目に入る。これが『私』。コルシー家とアルデンツィ家の血を引く『ルエリア』。私の視線がゆらりと揺れる。
その時、「コンコン」と控えめに扉を叩く音がする。
私は扉の方を向く。扉に向かう前、声がした。
「ルエリア?」
「フレン? ……入って」
正装ではない、少し『私』の部分が入った衣装でフレンが入ってくる。彼は私の隣に立ち、ゆっくりと私の顔を見る。
「……起きてたのか、少しだけ、顔が見たくて」
私の心が暖まり、ゆっくりと頷く。
「眠れなくて……」
「……俺もだ。しばらく、こうしていようか」
静かに、彼の方へ抱き寄せられる。彼の鼓動が、私にも聞こえる。それが私の心と繋がっているようで落ち着く。私は、うっすらと目を閉じる。包まれている。それだけで、張りつめていたものがふっとほどけていく。
その後、彼に手を取られ、部屋のソファに腰を下ろした。彼が一瞬視線を逸らす。
肩が触れるか触れないかの紙一枚挟んだような、近くて遠い微妙な距離で。
ふと、視線が交わり、彼がふっと微笑む。
私は少しだけ、首を傾げる。
「……いよいよ、明日だな……」
「……そうだね、やっぱり、緊張する?」
彼は少し視線を落とす、そして、呟く。
「王になるっていうより……明日から、立つ場所が変わるだけ、みたいな。さっき、おふくろと話して、親父のことを思い出して……」
彼が古びた指輪を取り出す。
「……親父の形見だって、これを渡されて。俺、子供だったから親父のことあんまり覚えていないんだ。それでも、これを持っていると、親父も見てくれている気がして――」
私は静かに頷く。
(ふたりでこうしていると、あんまり実感ないな。明日から立つ位置が変わるだけ)
フレンは視線を落としたまま、少し震えた声を出す。
「怖くない、とは言えない。でも隣にルエリアがいるなら……俺は、選べる」
私はゆっくりと、口を開く。
「隣で一緒に選ぶ。どんな時も」
彼の揺れる視線と、私の視線が、ゆっくりと静かに交わる。
フレンの呼吸が少しずつ、落ち着いていく。
私は、そっと彼の背中に手を触れて、ふわりとさすっていた。そうすることで、私も自然と心がほどけていった。
「……ルエリア」
彼がゆっくりと私に顔を近づける。私は目を閉じて静かに頷く。
フレンの手が私の頬に触れ、ゆっくりと口づけが落とされる。
私は心臓の鼓動が早くなるが、何故か気持ちは落ち着いていた。
ゆっくりと彼の背に手を回す。
視線が交わるたびに、私は包まれるように安心する。
彼の隣にいるから私は輪郭を見失わない。
(フレンがいるから、私は『ルエリア』に戻れるんだ)
私の視界が、少しだけ滲む。
「……大人になったばかりの君に、重い責を背負わせている……本当に後悔はしてないか?」
「後悔していないから、ここにいるの。隣に立つって、決めたから」
私が呟くと、彼の瞳の奥が更に揺れる。少し、涙がこぼれ落ちている。
もう一度、彼のほうに抱き寄せられ、口づけが落とされる。私は、あたたかい空気に包まれて、身を任せていた。
神殿の鐘が遠くで鳴っていることに夜の深まりを感じる。私たちは、その音を聞きながら明日を迎える覚悟をしたように、見つめ合っていた。
明日、私たちの世界は変わる。
でも今夜だけは、ただの夫婦でいた。




