50.王太子の朝
目を開けると、天蓋越しにオレンジ色の淡い光が差し込んでいた。
夜明けの色はもう過ぎ、朝のやわらかな光に変わりつつある。
――今日は、結婚式の日だ。
その事実が、胸の奥で静かにずしりと重さを持って存在している。
高鳴る、というよりも、深く沈むような感覚に近い。
フレンはゆっくりと身を起こした。
広い私室は静まり返っており、遠くで神殿の鐘が一度、低く鳴ったのが聞こえる。
(もう、逃げ場はないな)
そう思って、ふっと苦笑する。
逃げたいわけではない。ただ、これから先は「戻れない」という事実だけが、朝の空気のように澄んでいた。
ベッドサイドには、今日身につける正装が整えられている。
白と金を基調にした王族の礼装。重ねられた装飾は、どれも王家の歴史そのものだ。
指先で布に触れると、思っていた以上に重い。
(……これがじき王になる、ということか)
剣を握る重さとは、まるで違う。
力を示すための重さではなく、引き受けるための責任の重さだった。
扉が控えめに低い音でノックされる。
「……殿下、起床の時刻でございます」
側仕えの声に、フレンは短く答えた。
「入ってくれ」
数人の侍従が入り、手際よく支度が始まる。
だが、その動きはどこかいつもより慎重だった。
今日が特別な日であることを、彼らも理解しているのだろう。
着替えの途中、ふとフラヴィオの顔が脳裏をよぎる。
今頃、神殿のどこかにいるはずだ。
(あいつ、ちゃんと落ち着いてるだろうか)
親友ながら、過保護な彼のことを思って、わかっていても心配になる。
——いや、あいつだけじゃない。
ルエリア。
その名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに温かくなる。
彼女は、今頃どんな朝を迎えているのだろう。
眠れただろうか。
不安になっていないだろうか。
「殿下」
侍従の声に、フレンは、はっと意識を戻す。
「まもなく、神殿へ向かう時刻となります」
「……わかった」
返事をしながら、フレンは窓の方へ視線を向けた。
神殿の尖塔が、朝の光を受けて淡く輝いている。
あの場所で、彼女は父の手を取って歩いてくる。
剣を置き、自分の意思で選んだ道を、まっすぐな瞳で。
(守る、と言ってきた)
何度も、何度も。
だが——彼女は、守られるだけの存在ではなかった。
並び立つと選び、ここまで歩いてきた。
だからこそ、足がすくむ。
彼女の覚悟に、見合う男でいられるのか――。彼女の隣に、並び立つに足る人間でいられるのか。
「……弱気だな」
思わず、ひとりごちる。
王太子として育てられ、覚悟などとっくに決めたはずだった。
だが今日からは、『導く者』として選び続けなければならない。
それでも——。
脳裏に、母の言葉がよみがえる。
——選び続ける王でいなさい。
フレンは、胸元で小さく息を吸った。
「……俺は、選ぶ」
誰かに言うでもなく、静かに。
選ばれたから立つのではない。
選んだから、ここに立つ。
扉の向こうで、神殿へ向かう準備が整った気配とざわめきがする。
フレンは背筋を伸ばし、最後に一度だけ目を閉じた。
怖さは、ある。
責任も、重い。
それでも。
彼女が歩いてくる。
この国の未来とともに。覚悟を背負って。
「……行こう」
そう呟いて、フレンは扉の向こうへと歩き出した。
神殿の鐘が、はっきりと、朝を告げて鳴っていた。




