渓流で蠢くもの
山間の木々に囲まれた小さな渓流で、釣り用の長靴を履いた一人の釣り師が竿を垂らしていた。
座る場所も限られるような細い枝が茂った見通しの悪い岸辺だった。
このあたりは彼が自力で見つけたヤマメがよく釣れるポイントで、舗装された道路からもだいぶ離れていることから、わざわざやってくる余所者もいない。
それどころか、地元のものですら滅多にこないだろうと断言できた。
慣れないものだと歩くことも難しい、斜めに切り立った岩だらけというのが、人が来ない理由だった。
一方で、この釣り師はすでに五十歳近い年齢ではあったが、生来の身軽さがあり、難なく岩場を越えることが可能だったこともある。
したがって、ここは彼だけの場所といっても過言ではないかもしれなかった。
少なくとも、長年通いつめているが自分以外の者を見かけたことはなかった。
もっとも、川の幅員そのものも狭いため、どうしても獲物の量と大きさは小ぶりになってしまうきらいはあったが、それでも他人に邪魔されないというのはありがたかった。
大小の蝉の声と、流れる水の音だけが聞こえてくるという快適な空間を釣り師は楽しんでいた。
細々と差し込む陽光が水面を輝かせまるでガラス細工のように眼を楽しませる。
川の中に半分足を突っ込んでいることで、じんわりと冷たいのも、まだこの時期だと心地いいぐらいだ。
あとは獲物が釣れれば文句はないのだが。
すでに二時間経とうとしているが、まったく浮きが動く気配もないのだ。
時折、餌を替えてみるのだが、それでもうんともすんともいわない状態であった。
ふと、気がついた。
蝉の声がいつのまにか止んでいるのだ。
しかも、それがたまたまというワケではないことは、五分ほどたっても再開し始めないことからわかる。
まるで、突然、蝉たちがこのあたりの土地からすべてどこかへ飛んでしまったかのようだった。
「おかしいな……」
釣り師は周囲を見渡してみた。
静かになるにしても少し唐突すぎる。
何があったのか、というほどではないが、妙に気になるのだ。
背中を預けていた後ろの一番大きな岩によじ登り、首を伸ばして睥睨してみる。
木々に邪魔されて視界は悪いが特に異常はない。
そもそも、蝉たちが一気に飛び散って逃げ出すような事情など、まったく考えつかない。
単に気の迷いかと思って岩から降りようとした時、釣り師の視界に奇妙な物が入ってきた。
黒い棒状のものが動いているのだ。
最初はただ単に影が光の加減で動いて見えるのかと思ったが、あのように不定期に動くことなど考えられない。
長さは数メートルはあろう。
蛇のように見えたが、あのような巨大な蛇、アナコンダでもありえない。
ここは日本の奥多摩であるのだ。
それに耳を澄ますと聞こえてくる、あの音。
ガシャガシャガシャ
自然に響く音にしては不自然なぐらいに硬そうな連続音。
間違いなく、あれはあの黒い影から聞こえてくるのだ。
あんな音を立てるものを釣り師は知らなかった。
影は釣り師の視界を横切るようにして別の沢の奥へと向かっていく。
息を呑み、呼吸をするのも忘れて、釣り師は影の移動を追い続けた。
しかし、何かが変わる訳もなく、影は今度こそ木々の陰に隠されて見えなくなってしまった。
「なんだよ、あれ……」
しばらくして、釣り師が岩から降りると再びセミの鳴き声が聞こえるようになっていた。
さっきまでの静寂が嘘のように。
釣り師は何度か頭を振ってから、竿を片付け始め、撤収することに決めた。
もうここにはいられない。
あれが何であったのかはわからないが、あんな奇妙で不気味なものを見てしまったらもう一人でここにいることなど考えられない。
逃げることしか考えつかなかった。
あれが何であるかなどはどうでもいいことだった。
ただ、釣り師は自分の身が大事だった。
しかし、彼の心配は杞憂に終わることになる。
これ以降、彼はあの影と遭遇することはなかったのだから。




