レッドファイル六話
第6話:死の連鎖
雨に煙る赤坂の雑居ビルの一室。内閣情報調査室(内調)の志村は、デスクに広げた数枚の遺影を、苦渋に満ちた表情で見つめていた。
「また一人、消されたか」
背後で声をかけたのは、警察庁外事課の佐久間だ。彼のコートは濡れ、肩には焦燥感が張り付いている。
「今度は外務省の電信官だ。自宅の浴槽で手首を切っていた。遺書もあったが、筆跡鑑定を待つまでもない。奴らの手口だ」
この一週間で、レッドファイルの受け渡し、あるいは解析に関わった人間が四人死んでいる。心不全、交通事故、入水自殺。形の上ではすべて「不幸な事故」として処理されているが、現場を知る彼らには明白だった。これは、中国国家安全部が放った「処刑人」による、組織的なクリーンアップだ。
「単なる殺しじゃない」志村が、低く絞り出すような声で言った。「彼らは死ぬ前に、必ず指を折られている。あるいは、爪の間に針を刺された痕跡がある。奴らはファイルの在処を、バックアップの隠し場所を、死ぬまで吐かせようとしているんだ」
「……劉慶はどうした?」佐久間が問いかける。
「セーフハウスから消えて三日が経つ。警視庁公安部と我々内調で、互いの腹を探り合っている間に連れ去られた。内通者がいる。それも、相当な上層部だ」
劉少奇の血を引き、共産党の心臓部を抉る「レッドファイル」を持ち出した亡命者、劉慶。彼は今、東京のどこかで生きたまま地獄を味わっているはずだった。
闇の中の告解
東京湾に面した、地図に載っていない古い倉庫の地下。
劉慶は、鉄製の椅子に拘束されていた。全身は殴打と電気ショックにより、もはや自分の体の境界線すら定かではない。視界は血に染まり、目の前に立つ男の顔もぼやけている。
「劉先生。あなたは高貴な血筋だ。こんな無様な死に方は似合わない」
男は、流暢な日本語で語りかけた。中国から送り込まれた「処刑人」の一人、通称・老陳。彼は細い手術用のメスを弄びながら、劉慶の耳元で囁く。
「日本政府はあなたを見捨てた。彼らは北京との全面戦争を恐れている。ファイルを返せば、君の命だけは助けてやると言っているんだ。嘘だと思うかね? 現に、君を警護していた連中は、我々が一人ずつ始末しても、警察はまともな捜査すら始めていない」
劉慶は、割れた唇から血を吐き出した。
「……日本人が……そんなに、柔だとは思わない……。志村や、佐久間は、まだ動いているはずだ……」
「彼らもすぐに死ぬ。だが、その前に君が『バックアップ』のパスワードを教えるんだ。クラウドにあるのか? それとも、物理的なチップか?」
老陳の手元が動き、劉慶の悲鳴が地下室の冷たい空気を切り裂いた。
裏切りと、決死の追跡
志村と佐久間は、独断で「内通者」の特定に動いていた。
彼らが目をつけたのは、内閣官房の極秘チームの一員であり、国家公安委員長の暗殺時に現場付近の通信記録を消去した形跡のある人物——内調の同僚、山崎だった。
「山崎、どこへ行く」
深夜の地下駐車場。車に乗り込もうとした山崎を、志村が銃を構えて制した。横からは佐久間が退路を断つ。
山崎は観念したように両手を上げたが、その口元には薄ら笑いが浮かんでいた。
「志村、お前は正義感が強すぎる。レッドファイルなんて代物、日本が持っていても劇薬にしかならないんだ。北京に返して、恩を売る。それがこの国の、もっとも現実的な外交だよ」
「そのために委員長を殺し、局長を毒殺したのか!」佐久間が激昂し、山崎の胸ぐらを掴む。
「僕は手伝っただけだ。奴らはもう、劉慶からバックアップの場所を聞き出している。今頃、最終的な回収に向かっているはずだ。場所は……晴海の2号倉庫だ」
その瞬間、遠くから鋭い銃声が響いた。
山崎の額に風穴が開き、彼は崩れ落ちる。近くのビルからの狙撃だった。
「佐久間、行くぞ! これが最後だ!」
二人は山崎の車を奪い、雨の臨海部へとアクセルを踏み込んだ。
死の連鎖の終着点
2号倉庫に到着したとき、そこはすでに静寂に包まれていた。
だが、鼻を突くのは潮の香りと、混じり気のない血の匂いだ。
二人は慎重に内部へ侵入する。コンテナの影を移動しながら、志村が合図を送る。奥の小部屋から、低い呻き声が聞こえてきた。
扉を蹴破ると、そこには変わり果てた劉慶と、彼を包囲する三人の工作員、そして老陳がいた。
「遅かったな、日本警察」
老陳が劉慶の頭に銃口を突きつける。劉慶の手元には、血に汚れた小型のUSBメモリが転がっていた。それが、世界の勢力図を塗り替える「レッドファイル」のバックアップだった。
「それを渡せ。さもなくば、この亡命者の頭を吹き飛ばす」
佐久間と志村は、互いに目配せをした。
彼らには、政府からの「ファイル回収、あるいは破壊」という密命があった。だが、それ以上に彼らを突き動かしていたのは、散っていった仲間たちの無念だった。
「老陳。お前は一つ、計算違いをしている」
志村が冷静に告げた。
「俺たちは、このファイルを政府に届けるつもりはない。お前たちをここで仕留め、このファイルの中身を世界中のサーバーに同時多発的にアップロードする準備を整えてきた」
「何だと?」老陳の顔が初めて歪む。
「殉職した連中が、命を懸けて解析したプログラムだ。お前たちが引き金を引いた瞬間、北京の支配体制は終わる。どうする? 賭けてみるか?」
沈黙が支配する。雨音が屋根を叩く音だけが響く中、極限の心理戦が繰り広げられた。
劉慶が、朦朧とする意識の中で志村を見た。その目は「やれ」と言っていた。
「……撃て」
劉慶の掠れた声が響いた瞬間、倉庫内の電気が一斉に消えた。
佐久間が放った特殊なジャミング弾が、すべての電子機器を沈黙させる。
闇の中で、マズルフラッシュが断続的に光る。
怒号、悲鳴、そして肉が裂ける音。
志村は、床に転がるUSBメモリに向かって飛び込んだ。背中に熱い衝撃が走る。撃たれた。だが、指先は確かに、冷たい金属の感触を捉えていた。
「佐久間! 劉を連れて逃げろ!」
志村は叫びながら、残った弾丸を老陳の影に向けて叩き込んだ。
朝焼けの沈黙
夜が明け、東京湾の海面が鈍い銀色に光り始めた。
志村は、止血帯を巻いた状態で埠頭のベンチに座っていた。横には、傷だらけの佐久間。そして、毛布にくるまり、放心状態で海を見つめる劉慶。
「……ファイルは、どうした」佐久間が、途切れ途切れに聞いた。
志村は、ポケットから粉々になったUSBメモリを取り出した。
「山崎の言った通りだ。これは劇薬すぎる。俺が、潰した」
「……それで、良かったのかもな」
彼らの背後から、複数の黒塗りの車が近づいてくる音がした。サイレンは鳴っていない。それは、警察や内調ではなく、さらに「深い」場所から来た、事態を隠蔽するための清掃員たちだった。
「死の連鎖は、これで止まるだろうか」
志村の問いに、誰も答える者はなかった。
レッドファイルという怪物は闇に消えたが、それを巡って流された血は、雨に流されることなく、東京の地下深くに染み込んでいった。
第7話へ続く




