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レッドファイル  作者: タイシ


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レッドファイル五話

第5話:闇に消えた「甥」

1. 沈黙のセーフハウス


奥多摩の山間にひっそりと佇む、古びた保養所。そこは内閣情報調査室(内調)が管理する「セーフハウス」だった。

午前2時、静寂を切り裂いたのは、警備についていた内調職員の短く、くぐもった断末魔だった。


劉少奇の甥――「レッドファイル」を日本へ持ち込んだ男、劉慶は、リビングのソファに座ったまま、その音を聴いた。彼は逃げようとはしなかった。日本政府に保護を求めてから一週間、彼は自らの命が「究極の切り札」から「厄介な時限爆弾」へと変質していくのを肌で感じていたからだ。


ドアが音もなく開き、漆黒のタクティカルウェアに身を包んだ男たちがなだれ込んできた。リーダー格の男が、感情の欠落した瞳で劉を見据える。


「劉先生、北京があなたを待っています」


劉は皮肉な笑みを浮かべた。「迎えが来るのが少し遅かったな。日本政府の腰抜けぶりには、君たちも驚いたんじゃないか?」


争った形跡は一切残されなかった。数分後、そこには冷えた緑茶のペットボトルと、誰もいなくなった静寂だけが取り残された。内部通報による拉致。日本の中枢にまで根を張った中国の「蜘蛛の巣」が、獲物を音もなく回収した瞬間だった。


2. 公安と内調の不協和音


翌朝、現場に到着した警視庁公安部外事第四課の警部、佐藤は、荒らされていない部屋を見て吐き捨てた。


「また内調がトチりやがった。それとも、わざと逃がしたのか?」


内調の担当官は冷徹な表情を崩さない。「不当な言いがかりだ。我々は最善を尽くしていた。現場の警備を公安に任せなかったのは、そちらの内部に『潜入者モグラ』がいる疑いがあったからだ」


二人の間に火花が散る。第3話での警備局長暗殺、第4話での国家公安委員長爆破テロ。相次ぐ要人の死によって、日本の治安維持組織は完全に疑心暗鬼に陥っていた。警察庁、内調、そして外務省。互いに情報を隠蔽し、責任を擦り付け合う。その不協和音こそが、中国側が最も望んでいた状況だった。


「劉慶が拉致されただけならまだいい。だが、奴が持っていた『バックアップ』はどうなった?」佐藤が問い詰める。


劉慶は、日本政府に渡したメインのファイルの他に、予備のデータをどこかに隠し持っていると仄めかしていた。それは、万が一日本が自分を裏切った際の「保険」だった。


「我々もそれを探している。だが、劉が消えた今、その在処を知るのは……」


高城の言葉を遮るように、佐藤の携帯が震えた。報告を受けた佐藤の顔が、一気に血の気を失う。


「……第3の殺人が起きた。今度は横浜の隠れ家だ。ファイルに関わった翻訳官が殺された」


3. 「処刑人」の蹂躙


横浜の安アパートで発見された遺体は、凄惨を極めていた。

中国側の本気度は、もはや「隠蔽」のフェーズを超えていた。北京から送り込まれたのは、伝説的な暗殺者、コードネーム「影法師インファンジー」。彼は「処刑人」として、ファイルの内容を一行でも目にした人間を、物理的にこの世から消去する任務を帯びていた。


佐藤と高城が現場に急行した時、そこには一通のメッセージが残されていた。

翻訳官の死体の横に置かれたタブレット端末。画面には、中国共産党のシンボルである「鎌とハンマー」と共に、日本語でこう記されていた。


『借りたものは、利子をつけて返してもらう』


「宣戦布告だな」高城が低く呟く。


その時、二人の背後で微かな駆動音がした。アパートの向かいにあるビル。窓ガラスの向こうで、ライフルスコープの反射光がまたたいた。


「伏せろ!」


佐藤が高城を突き飛ばすと同時に、窓ガラスが粉砕された。特殊な消音器を通した銃声は、雨の音に消えていく。処刑人の狙撃だった。


4. バックアップの行方


命からがら現場を脱出した佐藤と高城は、組織の垣根を超えて協力せざるを得ない状況に追い込まれていた。もはや上層部の誰が「味方」で、誰が「敵」なのか判別がつかない。


「劉慶は、拉致される直前に一つの暗号を私のデスクに残していった」高城が、血の滲む手で一枚の紙を取り出した。


そこには、劉少奇がかつて失脚した際に残した詩の一節が記されていた。


「これは場所を示しているんじゃない。ある人物を指している」佐藤が直感的に言った。

「誰だ?」

「劉慶が日本で唯一、政治抜きで信頼していた男。かつて北京大学で同窓だった、今は上野で隠居している古美術商だ」


二人は組織には報告せず、独断で上野へと向かった。

しかし、古美術商の店「永楽堂」に到着した時、そこには既に先客がいた。

店内の照明は消え、香炉の香りが漂う中、椅子に深く腰掛けた男がいた。

劉健を連れ去った、あの「影法師」だ。


彼の足元には、拷問を受け、息絶えた古美術商が転がっていた。


「遅かったな。バックアップは、既に私の手にある」影法師は、手に持った小型のUSBメモリを弄びながら、滑らかな日本語で言った。


「それを渡せ。日本国内でこれ以上の暴挙は許さない」佐藤が拳銃を構える。


影法師は冷笑した。「許さない? 君たちの国は、既に中枢まで腐り落ちている。国家公安委員長が死に、警備局長が消された。次に死ぬのは誰だと思う? 官房長官か? それとも首相か?」


5. 崩壊へのカウントダウン


影法師が発煙筒を投げつけた。一瞬にして視界が白銀に染まる。

佐藤と高城が銃を乱射したが、煙が晴れた時には、影法師の姿も、USBメモリも消えていた。


外に出ると、夜空にはヘリコプターの音が鳴り響いていた。だが、それは救軍の音ではない。

「……公安の連中じゃない。防衛省のヘリだ。なぜ、こんなところに?」


高城の携帯に、内調のトップから直通の連絡が入る。

その内容は、二人を戦慄させるに十分なものだった。


『劉慶は、中国側への引き渡しが完了した。政府は中国側と密約を交わした。ファイルに関する一切の捜査を中止し、関係書類を破棄せよ。佐藤警部、高城。君たちの行動は「国家への反逆」とみなされる可能性がある』


「……トカゲの尻尾切りか」佐藤は天を仰いだ。


劉慶は消えた。レッドファイルは、その半分が闇に葬られ、残り半分は「中国の日本支配」をより強固にするための脅迫材料として、北京の手へと戻っていった。

日本政府は、自らの喉元に突きつけられた刃を、自らの手で研いでいたのだ。


降りしきる雨の中、佐藤と高城は、自分たちが守ろうとした国家が、もはや自分たちの知っている姿ではないことを悟った。


「終わったな」高城が呟く。


「いや、まだだ」佐藤は、上野の店から持ち出した、古美術商が死の間際に握りしめていた一枚の写真を凝視した。

そこには、劉慶と古美術商、そしてもう一人、現代の日本政治を裏で操る「フィクサー」の姿が写っていた。


レッドファイルの真の恐怖は、党員のリストではない。

そのリストを盾に、誰が日本を売り渡したかという「裏切りの記録」にある。


戦いは、ここから地下深くへと潜っていく。

静かなる侵略は、ついに「完了」の第一歩を記したのだ。

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