第一五九話 事実無根とは言い切れず
外から、鳥のさえずりのような音が微かに聞こえてくる。
(…………んん…もう、朝なのか…)
耳に届く音の大きさはあまりにも些細なもので、しかしそれ以外に存在する雑音が無いからこそ彼の意識にも届いたのだろう。
現に悠斗は微睡みに沈んでいた己の思考がこれをきっかけに再起動するのを実感していたし、窓から入り込んでくる温かな日光から今が早朝であることを推察した。
(まだ大分眠いんだけども……今、何時だ。時計はどこに……うん? なんか、部屋が違うような……というかここ、リビングだよな。どうしてこんな場所に──…え?)
だがそこで悠斗は気が付く。
何気なく現在時刻を確認しようと辺りを見回し、普段ならすぐ近くに置かれていた時計の方向を見ようとして……この場所が自分の部屋ではないことに。
ある意味見慣れた空間ではあるものの、そこは彼の使うベッドが設置されている部屋などではなく最も広いリビングだ。
そして同時に、何故こんな場所で自分が寝ているのか。
いやそもそも、寝るための場として活用しているわけでもない居間に堂々と敷かれた布団で彼が眠っているのはどういうわけか……と。
ここまで脳内処理が追い付いたところで、ふと悠斗は自身の腰辺りに感じた不思議な感触に意識が向いた。
付け加えるならしっかりと掛けられていた布団の一部。
位置的には悠斗の腹付近にてやけに膨らんでいる掛け布団の状態をしばらく見つめて…猛烈に嫌な予感がした。
「…………」
本能的にこの正体を暴くのはマズいのではと目の前の現実から逃避して二度寝をかましたい欲求に駆られるも、徐々に追い付いてきた昨晩の記憶が段々と蘇ってくる。
頼むから間違いであってほしい。間違いでなくとも、せめて夢であってほしい。
しかしそんな彼の願いは無情にも通用せず、小さく息を吐いて覚悟を固めて一思いに毛布を剥ぎ取ると──。
「……嘘だろ。頼むから、嘘だと言ってくれ……」
──そこで現れてきたのは、嘘でも幻でも妄想でもなく。
叶う事なら悠斗の思い込みであってほしいと願い続けた期待を裏切るように、健やかな寝息を立てている咲の姿。
昨夜、とあるハプニングによってこの布団からの脱出が困難となった瞬間から一切変わらず彼の身体に腕を回した状態の彼女が現れてきてしまった。
誰にどう言い訳をしようとも誤魔化せる状況ではない。
主観だろうと客観だろうと、このシチュエーションを前にしてしまえば誰もが二人が同衾をしたのだろうと断言する状態が組み上がってしまっている。
言い逃れをするまでもなく、完全に悠斗の油断と失態が招いた惨状であった。
……少し待って欲しい。手遅れなのは火を見るよりも明らかであるが、一つだけ釈明をさせてほしい。
この状況のみを切り取って見ればそう思われても仕方ないのは悠斗も非常によく理解しているものの、誓って妙な真似はしていないし咲に手を出すような行動は起こしていない。
記憶が正しければ確か昨晩は咲の寝る布団に引きずり込まれ、そのタイミングで蓄積した疲労が頂点に達した事によって不覚にも熟睡してしまった。
それ以外の事は一切合切していないし、確認すれば衣服にも怪しげな乱れは……無い、はず。
(……とりあえず、この辺は大丈夫か。良かった……いや何も良くはないんだけど)
一体何を確認しているんだとツッコまれそうだし、説得力皆無なのはその通りである。
ただこの事実は悠斗の中で一度しっかり見直しておかなければならない事項であったので、その辺りを把握し終えるとひとまず取り返しのつかない過ちは犯していなさそうだと安堵の息を吐く。
が、その直後に安心している場合では無いと改めて自分の周囲を見渡す。
(待て待て……呑気に大丈夫なんて言ってる余裕はないんだぞ。というかこれ、咲も掴んできてるのが変わってないし…抜け出せないんだが!? マズい…このままじゃ、咲が起きた時なんかは勘違いされるってレベルじゃないぞ…!)
浮かび上がってきた昨夜の記憶から、大体の事情と経緯は悠斗も把握出来てしまった。
しかし他の何を差し置いても、咲にこの状況を見られでもしたら失望されるどころの話ではない。
彼女が悠斗のことをどう思っていようとも、自分が知らぬ間に意図的ではなかったとはいえ同じ布団に潜り込んでくるような男など積み上げてきた信頼が一瞬にして瓦解しても不思議ではない。
それどころか失望されるだけならまだマシな方で、最悪の場合悠斗が咲に見限られるようなことまでも……可能性としては否定しきれない。
……想像するだけでも寒気がしてくる。どうにかして咲が目を覚ます前にここを抜け出さなければ。
されど現在進行形で背中にまで回されている彼女の両腕はかなりガッチリと固定されていて、生半可なパワーでは脱出できそうにも無かった。
(…とりあえず落ち着け。焦りすぎると状況も悪化するだけだ。ひとまずこの場は何とか咲を起こさないように、それでいて静かに移動できる術を考えて──)
「…………」
「…………え゛」
だが、無念にも。
どうにかこうにかして窮地を脱しようと早朝から頭をフル回転させていた悠斗の動きを鋭敏に察知されてしまったのか、ほとんど腕の中にいる咲にも振動が伝わってしまったのだろう。
目を凝らさなければ確認出来ない程の誤差程度ではあったものの、間違いなく小さな身じろぎを始めてしまった彼女の挙動は少しずつ大きなものに変化していき。
やがて、それだけは勘弁してくれと思っていた悠斗の願いなどまるで通じず寝ぼけ眼の彼女とばっちり目が合ってしまう。
「……………………?」
「…………あの~…おはよう?」
「……」
最初は咲も眼前の景色が理解しきれなかったのか、意識を覚醒させるためにも何回かパチパチと瞬きを繰り返す。
手で目元を擦り、数秒程自分と悠斗目掛けて視線を彷徨わせて……正気が追い付いてきてしまったらしい。
「…………ッ!?!?」
「ま、待ってくれ咲! 誤解なんだ! 俺も入ろうと思って布団に潜ったわけじゃ──!」
「……~~!!」
理解の波が追い付くや否や、この彼らが二人して同じ布団で横になっているという不自然なシチュエーションを目の当たりにして驚愕と羞恥で顔を赤く染める咲。
もはやボフッと音でもしそうな勢いで混乱状態に陥ってしまった彼女であるが…悠斗も言い訳を重ねるようにして仕方なくこうなってしまったと純粋な事実のみを述べていく。
実際悠斗も狙って同衾などしたわけでは無いため、何とかそこを分かってもらおうと懸命に説明するのだが効果は薄い。
当然である。彼女は彼女で意味が分からない事態に錯乱しかけているのだから、彼の言い分に耳を傾ける方が難しい話だ。
それでもだからと言って弁明を放棄するわけにもいかず、せめて自分の無実を証明しなければと彼も躍起になるも……事態は収束の気配を見せるどころか、より最悪な余波を引き起こそうとする。
というのも不意に悠斗はリビングの更に奥、廊下に繋がる扉の向こう側から一つの足音が近づいてくる予兆を耳でキャッチし、これはこっちにどんどんと接近してくる。
……そこでも強烈に嫌な予感はしていたのだが、目の前の咲への対応に手間取っていた現状では対処も間に合うはずもなく。
聞こえてきた通り、近寄ってきていた足音の正体は扉の前で立ち止まると今度は勢いよく開け放ち、活力に溢れた声色で呼びかけてきた。
「はーい、咲さん! もう朝だけれど……起きてるかしら! もしよかったら朝食でも一緒につく───…あら?」
「あ……」
「…………」
豪快な音を響かせつつ現れたのは、昨日から全く変わらないテンションの高さを振りまく母たる真奈美。
語ってきた言葉の内容からして、どうやら既に起床していたらしい向こうが朝食の誘いを持ち掛けてきたようだったが……そこで目撃された光景を見て、慌ただしい動きも硬直する。
具体的に説明すると、リビングに本来いるはずのない悠斗とそんな彼のいる布団で横になる、妙に顔を赤くした咲の二人を。
……おそらく、その間に真奈美も考えることは多々あったはず。
こちらもこちらで少し動きを止めた後、顎に手を添えて何かを思案する素振りを見せつつ何度か頷くと…全てを納得したように迷わず部屋を出て行こうとする。
「…ふむ、お邪魔しちゃったみたいね。また三十分くらい経ったら戻ってくるから、二人は気にせず続けて良いわよ!」
「ちょっ、待て待て!? 誤解だ誤解!!」
「…………!!」
とても、とてもいい笑顔を浮かべながらとんでもない結論に達したことを暗に告げられる悠斗。
この現場を見てしまえばそう思われてしまうのは無理もないが、しかし実の親にそうした勘違いをされたままなのは非常に辛すぎるものがある。
よってすぐさまリビングを飛び出し、何やらその奥で『昭宗さん! 悠斗たちはまだ忙しいみたいだから、私たちもゆっくりしてましょう!』と次なる誤解を誘発しようとしていた母を止めるべく悠斗も慌てて部屋を飛び出していった。




