第一五七話 焼けていく理性
「寝てる……んだよな? 多分、というか絶対…」
すぐ隣から寝息らしき音が聞こえてきた段階で怪しくは思ったが、まさかそんなことがあるかと目を向けてみれば…結果はそれこそまさかの予想的中。
いつ頃からそうなっていたのか、すぐ傍にいた悠斗でさえ予兆すら察知できなかったのも驚きではあるが思い返すと無理もないのかもしれない。
状況の混沌具合に失念しそうになっていたが、現在の時刻は既に夜中へと突入しかけている時間帯。
今日だけは悠斗の家に泊まりに来ている咲も、いつもならもうとっくに自宅へ戻って就寝の用意に入る頃合いだと教えられたことがある。
そんな時間に、ただでさえ一つだけでもお腹いっぱいになりそうなイベントが一日の中にこれでもかと詰め込まれていたのだ。
普通の人間なら本人に自覚が無くとも疲労は蓄積しているはずで、咲もその例には漏れない。
……あんなことを言って悠斗を悶々とさせておきながら、その真っ最中に眠ってしまうのは流石に予想外にも程がある展開であったが。
「うん……これは眠ってるな。それだけ疲れてたってことか」
一瞬咲が狸寝入りしている可能性も脳裏によぎってきたものの、この様子からして本気で寝入っているだろうことは間違いない。
試しに彼女の頬をぷにぷにと指で優しく突いてみるも、全く嫌がる挙動もくすぐったくする反応も見られないので睡眠状態に移行してしまったらしい。
なお、ここだけの話にはなるが咲の頬へ触れた際に若干の恨みの感情が混ざってしまったのは悠斗だけの秘密である。
あそこまで自分の感情を掻き乱しておきながら、彼女だけは健やかな寝入りを披露してみせたことに何となく悪戯をしてやりたくなったわけでは断じてない。
「人の心を弄んでおきながら……ま、こうなったらしょうがない。こんなところで寝てたら風邪引くし、布団まで運ばせてもらおうかね」
いきなり寝入った事には心底驚愕させられたものの、それならそれで仕方がない。
ほんの数分前はあれほど心臓を傷めかねないほどに鼓動を早めてドギマギしていたというのに、今となってはいつも通りの態度で咲を布団まで移動させようとしている。
季節的にはまだ春とはいえ、布の一枚も掛けずこんな場所で寝ていたら体調を崩してしまう。
なので許可もなく触れてしまうのは申し訳なくもあれど、ここばかりは不可抗力ということで彼女を運搬させてもらう。
「あとで謝るから、今だけは触るのも許してくれな…っと! …相変わらず軽すぎるよな。ちゃんと食べて……って、これを考えるのは失礼か。やめやめ。早いところ運ぼう…」
なるべく向こうに負担のかからないよう両腕に抱きかかえる形でひょいっと軽く持ち上げ、そこに伴って実感してしまう咲の信じられない身軽さに驚きながらも…その思考はすぐに打ち切り、自分の任務を遂行する。
ただ、出来る限り起こしてしまわないよう注意したつもりだったのだがやはり持ち上げた際の衝撃が少し伝わってしまったのか。
目を覚ましたわけでは無かったものの、身じろぎをしながら彼の服の裾を掴んできたので今度は起こさないよう慎重に布団の位置まで運び……下ろすことに成功した。
「ふぅ…これでよしっと。…気持ちよさそうに寝やがって」
「…………」
何とか自分のやるべきことを全うした悠斗は安堵の息を吐き、そこで何気なく横になる咲を見た。
微かに寝息を繰り返すだけの彼女は瞼を閉じているだけでも様になるほど容姿も整っていて、逆に眠っているからこそ幼さによって増大している愛らしさは何倍にも膨れ上がっている。
見る者が見れば目線を外すことなど出来ず、悠斗とてその一人。
むしろ彼女に特別な感情を抱く彼だからこそ視線は誘導されてしまい、ほとんど固定されてしまっているに等しい。
だから、こうして見守っているだけでもその想いは強まっていく一方で──彼自身も無意識のうちに伸ばしていた掌で咲の頭を撫でながら、言葉は零れる。
「…好き、なんだよなぁ。本当に。…ずっとそう思ってたのに、あんなことを言われちゃあな」
壊れ物でも扱うかのように優しい手つきで咲の頭を撫でていき、その過程で吐露された想いの丈は紛れもない本心。
ずっと前から自覚はしていて、それゆえに表には出さないよう細心の注意を払ってきたつもりだった。
…にもかかわらず、咲からあのような発言を告げられてしまった。
あそこにどんな意図が込められていたのか、悠斗もまだ全容は分かっていない。
彼に分かるのは自身の主観による判断が出来る範疇のものでしかなくて、それが必ずしも正解とは限らない。
しかし、その範囲内で考えてみた結論としては……やはり、あれは──。
「そう、なのかな……いいや、どっちにせよだ」
色々と推論も立てて何度となく深読みもしてみた。
だが、その末に出てきた答えはどちらにせよ変わらない、というものでしかない。
もちろん咲がああ言ってきた真意は気になるどころの話ではないし、確かめられるものなら確かめてみたい。
ただそれ以前に、彼の抱く感情として悠斗は咲のことが好きなのだ。友人としても、異性としても。
であれば悠斗の取るべき行動は、仮にあれが咲の勇気を振り絞ったものだったとしたのなら……それに応えられるだけの覚悟を示す、だろう。
「……まぁ、そこは追々ってことで。咲にも聞きたいことは山ほどあるが、また明日…だな。流石に今日はもう休まないと……ふわぁ、俺も限界が近い…」
何はともあれ、己のすべきことを見定められたなら今日のあれこれにも相応の意味はあったと思いたい。
彼女が仕掛けてきた行動の真意も、謎の素振りについても──いずれ訪れるかもしれない望んだ未来で判明すれば良いなと、些細な期待感も込めて。
そして諸々の疲労感から悠斗にも徐々に接近してきていた眠気のピークの存在感は強まっており、漏れ出た欠伸も抑え込めそうにない。
かなり限界ギリギリのところで踏ん張っていたものだとここに来て再度自覚させられたため、早く部屋の電気だけ消して自室に向かおうと立ち上がりかけたところで……それを阻止する手の存在があった。
「……ん? あ、咲が掴んでたのか……悪いけど、今ばかりは離してくれないと困るから手を開いて……ちょ、思ってたより力が強いような…え、離れなくないか。これ?」
立ち上がろうとした際に下から引っ張られるような感触があったので何事かと思えば、移動してきた時に服の裾を掴んでいた咲の手がまだ握られっぱなしだったのだ。
しかしこのままでは悠斗が自由に移動できないので、名残惜しくもあるが解放してくれと手を動かそうとして……初めて気が付く。
咲の手は悠斗が思っていたよりも遥かにガッチリと力強く掴まれていたようで、生半可なパワーでは引き剥がせそうにもないことに。
おそらく悠斗が本気で力を込めれば離させるのも不可能ではないが、逆に言えばそれくらいの力を出さなければ無理ということの証明でもある。
だがそれは出来ない。
何故なら、ここで無理やりに咲の手を強く握ってしまえば彼女を起こしてしまう可能性があり…心地よさそうな寝顔を浮かべて休む咲にそのような事は彼がしたくない。
……要するに、悠斗は自分が詰んでいる事実を思い知らされた。
「え……どうしよう」
他に誰もいないリビングの中。
時刻は夜中に差し掛かった頃合いに、一人手の打ちようがなくなった現実に打ちひしがれる声が悲しく響いていた。
悠斗、ここに来て長い長い理性との闘いが幕を開けた。




