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3-2 違和感と氷解




 自分の中に巣食う言い表しようのない違和感が、その瞬間嘘みたいに一瞬で溶けていったのだ。



 物心ついた時には、もう既に施設にいた。それがリラにとって与えられた“普通”だった。

 幸不幸の尺度はよく分からない。だって他の家庭というものも知らないし。

 時折判別のつかない記憶の断片があるから、それが実の親とのものなのかもしれない。でも、朧げすぎてもはやないのも同然だった。



 施設での暮らし。それがリラの普通。ただ、そこには他にも沢山の子どもがいて、常に騒がしくて、それがいつもストレスだった。一人でいる方がリラには気楽だったし、他の子が興じているような様々な遊びには全く興味を持てなかった。

 絵本を読んだり、積木やパズルをしている方がマシだった。それも、楽しいという感覚とは少し違っていたけれど。とにかく、毎日退屈だったのだ。



 寂しいとか、悲しいとか、どうしてとか、そういう感情は希薄だった。だって、それよりもっと色濃く切実なことがあったから。



 一日の内、三回も嫌なことがあった。

 食事の時間が苦痛だった。何が嫌かは分からないが、とにかく嫌だった。

 どうしてみんなあんなに楽しそうに嬉しそうに口に次々と放り込めるのか分からない。美味しいとは、一体どういうことか。



 もちろん、中には嫌いなものがある子もいた。でも、それは特定のものに対してのようだった。自分のように一から十まで嫌だという子はいなかった。

 パンも牛乳もハンバーグもデザートのゼリーも、全部違和感しか覚えない。何か違う。これじゃない。

 でも、食べなくてはお腹が空く。空くけれど、欲しいのはこれじゃない。でもじゃあ何が欲しいのかと問われても、それも分からない。イライラする。爪を噛むクセがいつのまにかついていて、よく注意された。でも、口が寂しくて気が付いたら噛んでいる。

 食事の度に職員はげんなりした気持ちを押し殺しながら、リラに何とか食べさせようとする。毎日毎日双方疲れるばかり。



 施設でリラはいつも遠巻きにされていた。とっつきにくかっただろうし、変わった子だとも思われていただろう。毎日食事の度にあれほど格闘している子は他にはいない。

 それに、見た目が違うのも原因だっただろう。どこにもリラのような銀の髪や青の瞳をした子はなかった。



 目立つものは弾かれる。群れに馴染まない。



 珍しがり、面白がる子もいたが、それも最初のうちだけだ。リラは見た目は申し分なく愛らしかったが、早熟していた内面のせいか可愛げはなかったので、それも拍車をかけたかもしれない。



 でも、それがリラの普通だった。ずっとずっとそうだった。

 あの日までは。



 いつまで、こんな無意味なことを続けなければならないのだろう、とぼんやり思っていた。絵本も積木もパズルも、何にもなりはしない。五十音表をマスターしてからは、少しだけ世界が広がった気もしたが、それも随分小さな一歩でしかないことを幼心に理解していた。

 知っても、探求心は生まれない。つまらないな、が加算されるだけ。



 その日も、リラは皆が外で走り回っているのを尻目に、一人室内に残って時間を潰すためだけに積木に触れていた。

「…………」

 チラリと時計に目を遣る。どこの数字に針が合って、どういう形になれば食事の時間になってしまうかは把握しているから、秒針の音を聞くだけで嫌な気持ちがどんどん高まっていった。



 自分の気持ちを、誰も理解しない。こっちのことを変人扱いする。おかしいのだと、そう扱う。



 違うのに。おかしいのは、リラではないはずなのに。



 けれどそれを上手に説明はできない。だから軋轢はどんどん酷くなる。

「……?」

 ふと、視線を感じた気がして、頭を上げた。

 またいたずら好きの幼稚な男子達が、何か仕掛ける隙を狙っているのかもしれない。

 でも、そうではなかった。そうではなくて――――

「――――」

 部屋の引き戸。上半分がガラスになっていて向こうが見渡せる。そこに。



 老人がいた。こちらを見ていた。

 きちんと整えられたシルバーグレーに染まった髪、シワの刻まれた目元、たっぷりと蓄えられた口髭。それなりに年を取っているように見えるが、背筋はピンと伸び妙に若々しさも感じる。

 知らない人間だった。そのはずだった。



 でも。



 真っ直ぐ目が合ってしまっていた。どうしてか、逸らせなかった。理由は分からない。けれど、食い入るようにリラはその老人を見つめ返した。

 あの目は何だろう。あんな目を向けられたことはない。どういう感情を含んだものなのだろう。切実だ、ということは伝わってくるけれど。



 それは、知らない感情のはずだった。にも拘らず、唐突に彼女は理解した。

 リラのように他とは違う瞳の色。深い緑の色。そこに込められたものは、愛おしいという感情だと。



 あれ?



 と疑問が一つ頭を掠めた。



 あれ? なんだっけ? 愛おしい? なにそれ? それに、この人――――



 そこからは怒涛の勢いで次から次へと疑問とそれに対する答えが勝手に自分の中からずるずると引き摺り出される。

 真っ暗だった頭の中で大流星群が流れているような、そんな感覚。流れては繋がり、次の星がまた流れる。全てをリラに教える。今まで違和感だけを抱えてきたリラに、その正体を解き明かす。



 自分は、何者で。

 彼は、誰で。

 自分にとってどれだけ大切で。

 そうだ、私は――――



 次の瞬間、その単語は勝手に喉から迸っていた。



「グウェン!!」



 あぁそうだ、グウェンだ。彼はグウェンだ。私の、グウェン。ずっと遠い昔に置き去りにしてきた。

 きっとそのうち会えるわよなんて、そんな言葉を信じて信じて、遂にこんなところまで辿り着いたのか。



 喉が渇く。欲しいものが何だったのか、理解が及ぶ。人生に色が付き、世界は部屋の外にも広がっていて、一挙一投足が意味を持ち始める。



 リラは短い手足を懸命に動かして、今の自分にできる全速力で走った。真っ直ぐに走った。

 いきなり飛び込んでも、心配することなんて何もない。この男は、ちゃんと自分を受け止めるのだから。



 あぁ、そうだ。そう。私は、吸血鬼。高貴な血を継ぐ古くからの吸血鬼・カミラ。



「グウェン!」

 飛び付いて、受け止められて、抱き上げられる。あぁそうだ、これが欲しかった。

 躊躇わず、その首筋にガブリと噛み付く。

 周囲で悲鳴が上がっていたが、そんなことはどうでも良いことだった。



 余談だが、その日リラは高熱を出して、それから数日間寝込んだのだった。あまりに膨大な知識と記憶に、今の身体が耐え切れなかったようだった。

 だけれどその日は、生まれて来てから恐らく一番充実した一日だったのだ。





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