2-9 美味しい匂い
いい匂いだな、と特別に鼻が惹かれたのは、本当に本当に久しぶりのことだった。
手元にあるコーヒーも良い薫りをくゆらせていたが、それとはまた違う。グウェンは視線を奥の厨房の方へ向けてみる。
「どうかしたか?」
「いや……」
街中にある何の変哲もない喫茶店だった。向かいに座るは、グウェンに合わせて渋みのある老人の顔を装った男。そう、装った。
梔子、と名乗るこの男もまた、人ならざるものだった。
むじな、と言えば日本人には割と通じるのではないだろうか。口どころか顔のパーツが何もなくつるりとした、のっぺらぼうとも言われるあやかしだ。
と言ってもその特性は今は見る影もない。認識できる顔はきちんとある。
ただし、これは本当の顔ではない。
何でも、自分の思うように色々な顔に擬態できるのだと言う。ただし、本当の顔と言うものはない。あるとしたら、何もない状態がそうで、けれどそれでは不便なのでこの男は必要に応じて色々な仮面を付け、世を渡り歩いているのである。
グウェンに合わせて、というのはだからそういうことだ。取り合わせにちぐはぐ感が出ないようにとの配慮なのだろう。“老人の顔”を選んでくれている。
梔子とは古い付き合いで、今回日本に居を構えたりリラ嬢を引き取るための手続きの件でかなり世話になった。待ち合わせの際にパッと見ただけでは誰だか分からないのが難点の男だが、文明の進歩が携帯端末というものを彼に与えたので、最近は待ち合わせ前に本日の顔を送って来てくれる。便利な世の中になったものである。
「お待たせしました」
二人向かい合わせに座っていたテーブルに、注文した品が運ばれてくる。
「季節のフルーツを使ったプリンクリームパフェでございます」
なかなかに迫力のある一品が、どんと置かれる。グウェンーーーーではなく、梔子の方に。
そう、この男は大の甘党なのである。この見目の年代の人間が食べるには胃もたれ必至な一品なので、傍からは浮いて見えるかもしれないが、胃袋まで加齢の影響を受けている訳ではないのでペロリと平らげてしまうだろう。
「良い匂いがしているね。どのメニューかな」
運んできたのは店主だろうとその見目から判断をつけて、せっかくだからとグウェンは気になっていたことを訊ねてみた。
「申し訳ありません。あれは奥でウチの者が作っている賄いでして」
すると店主は眉を下げて、そう言う。
「匂いを客席まで……」
そうしてペコリと頭を下げようとするので、慌ててグウェンは言い募った。
「いやいや、とても食欲をそそる良い匂いだった。つまり、メニューにあるものではないのだね。とても腕のいいシェフがいるのかな」
「確かに、言われてみればいい匂いだな」
隣でさっそくパフェを突きながら、梔子もそう頷く。
「そう言って頂けると光栄です」
そうしたら、今度は店主は破顔した。中年の男性だが、人好きのする親しみやすい笑顔だった。
「ですが、賄いを作っているのはアルバイトの学生でして」
なんと、それは驚きだ。
別にグルメ家を気取るつもりはないが、嗜好品として口にするものだからか、グウェンの食事への欲求はそう強いものではない。だから、惹かれたものしか口にしない。
つまり惹かれたということは、きっとグウェン好みの相当素敵な一品だろうと思ったのだ。アルバイトの学生だというが、随分才があるのではないだろうか。
「将来有望だね」
そう言ったら、店主はまたまた笑みを深めた。
「本人が聞いたら喜びます。料理人志望の子なんです」
そうして帰りの会計の際にチラと奥を覗いてみれば、アルバイトの学生とは言っていたがそれでもまだ随分若い子で、グウェンは更に驚いたのだった。




