弐:かき氷
海辺の小さな集落だった。
国というものがなく、各集落で互いに助け合って暮らしていた。怪異は身近な存在で、名前もない集落のひとつでは、人魚と共生していた。
引き潮のときにだけ歩いてゆけるようになる島が人魚の棲み処だった。そこに祠をたて、祟りに遭わないよう祀っていた。半日で一周できるほどの小さな島だが、供物を捧げるとき以外は立ち入ってはいけない禁域だった。
海に出て漁をするのは男の仕事で、女は沖で網を編んだりしていた。その集落で生まれ育ったミチも、ごく当たり前に夫を持ち、ほどなくして子どもを産んだ。
たどたどしくもいくらかの言葉を子どもが話すようになった頃、集落に疫病が蔓延した。感染経路を特定できるような者もおらず、易者は祟りだと断じた。皆、それを信じた。易者以外に未知を断ずる者がいなかった時代だ。
天災が併行して起ることがなかったのが幸か不幸か、ひとり、またひとりと事切れてゆく。そのなかにはミチの夫と子もいた。人々にじわりと絶望が浸食してゆく。半数は減った頃合いになり、人魚へ供物を捧げ祟りを祓ってもらうことになった。
誰が贄となるか。まだ親がいる、まだ子がいる、まだ兄弟がいる、まだ伴侶がいる。誰もが遺してゆけぬと口々にいうなか、ミチだけは口を閉ざしていた。すでに夫も子もいない。対象がそもそもいなかったのだ。
まるでそれが自然かのようにミチが供物になることが決まった。
潮が引き、縄で腕ごと胴を縛られ足だけが自由の状態で離れ小島へ向かわされる。ミチは、自身で編んだ縄がこんな使い方をされるとは思っていなかった。背後で聴こえる祝詞が歩を進めるごとに小さくなってゆく。ミチひとりだったが、抵抗はなかった。逃げるとしてどこへ逃げるというのか、もう夫も子もいないのに。生きる意義が消え失せていた。
小島の裏側に入り江があり、主にそこで人魚の姿が確認されていた。海へ向いて砂浜に膝をつく。
月がみえた。一晩待った。
その夜は人魚は現れず、ミチはいつの間にか砂浜で横になっていた。陽光を瞼裏でも気付けるようになった頃、漣とは別の水音がした。瞼をあげ、海を映すと目が合った。
人の頭が海面からでている。その眼球はみたことのない色をしていた。虹彩が貝殻の内側のように遊色で、何色ともいいがたかった。
「人の子か」
浜辺にあがってきた人魚は上半身は人に似通い、下半身は魚だった。首には鰓がある。人真似の笑みを浮かべるだけの口は開いていない。なら、この声はどこから届くのか。
ひとりゆえ、音として人魚の言葉が届いているのかどうかも定かではなく、話ができるだけいいだろうとミチは深く考えるのをやめた。興味関心がなかったというのもある。
しかし、伴侶をもち子も産んだ経験すらある自分を子ども扱いとは、いかほど寿命の長い生き物なのか。ミチの親よりも前から一匹の人魚を確認していたが、ずっと同じ一匹だったのだろう。
「どうして縛られているんだい?」
「あなたへの供物だからだ」
小首を傾げる人魚に人間の目的を告げる。餌をやるから恩恵を寄越せ、という身勝手な都合を。
「人は食べないんだがね」
人魚はミチを扱いかねた。自身で獲る魚などで食糧は事足りている。人間は特段好んで食べはしない。これまで漁にでた者たちを襲ったこともなく、言葉を交わせるのに接触してこなかったことからも、それは判断できた。極限に陥った人間たちが勝手に見誤っただけのこと。
「食べれはするんだろう」
「だがね。それだけだ。何も与えてやれないよ」
人間が願う、病を祓うことも、残る民を生かすような力もない。ただこの海域に棲み、言葉が交わせる魚というだけ。
ミチは憤慨した。死ぬ意義すら奪われた。体よく集落の者たちから見捨てられた自分に唯一残された意義だったのに。
どうして教えた。何も知らせず、言葉をかけることもなく餌だとこの身を食らえばよかっただろう。そうすれば、意義を感じて死にゆけたものを。
夫のいないこの世にいつまで残り続けなければならないのか。子どもは産まれて数年だったから、海に還りまた新しい命として巡るのだろうと、悲しくともその先の幸せを祈ることができる。だが、共に生きると誓い合った夫は無理だ。
それから、人魚は獲った魚をついでのように分けてくるようになった。編みがゆるかったのか、人魚爪が鋭かったためか、胴を縛る縄は彼女が軽くひっかいただけで切れた。食糧としての興味はないが、話相手になるミチは暇つぶしにちょうどよかったらしい。
自身の分のうちの一匹を与えられ、空腹に抗えずミチはそれを焼くか蒸すかして食べた。わざわざ火に通してから食べるなんて変わっている、といいながら、人魚はその間に自身の分の数匹を食べていた。手間のかかる食べ方をするミチを、おもしろげに浜辺で眺める。
ミチは惰性で分け与えられる魚やら貝やらを口にし、幾日か生きながらえた。憤りがなくなった訳ではないが、人魚に殺意が湧くほどではなかった。一方的な理由で殺しては、自身を贄にした集落の者たちと変わらない気がした。それはなんだか嫌だった。それだけだ。
月のない夜に、とぷんと海から音がした。
眠りの淵から意識をひきあげ、瞼を押しあげると、夜闇のなかでも遊色の双眸がちらちらと光っていた。
人魚が夜に浜辺に訪れるのは珍しい。日に一度、陽のあるうちに分け前をもってくるだけだったのに。
むくりと半身を起こし、見据えると、人魚は砂浜にあがってきた。
「お前にならいいぞ」
「は?」
眼前でひたりと笑う気配がした。
「最期に話し相手になってくれたお前になら、食われても構わん」
食われにきた人間に食えとは、これ如何に。偶然にも人魚は天寿間近であった。どうせなら死んだあと、ミチに食えという。
ミチがたわいない話に付き合ったのは惰性であるし、人魚の提案も礼というよりは気まぐれであった。海の生き物たちに雑に食われるよりは、得た食糧はきちんと食べきるミチ一人に食われた方がマシに感じた。
「なぜ」
理由などないと知りながら問うた。承服しかねたからだ。
「食う食わないもお前の好きにするといい」
そうなったら腐るだけのこと。そうなったら魚類の腐臭がさぞきつかろうと、ミチは想像して顔をしかめた。夜目がきくのか、気配で察したのか、人魚はころころと笑う。
笑って目を細めたからか、眼前の遊色が消え闇のみになった。
人魚の哄笑が静まる頃には、朝日が昇りはじめ、波打ち際に大魚が横たわっていた。大人ひとりより尺がある。貝殻の内側のように鮮やかにきらめいていた目玉は白濁していた。
「……食えるのか?」
人間が口にできる味をしているのか。ミチにはまずそれが疑問だった。
本人は食べろといったが、半端にだが人を模せる大魚はそもそも食用向きの身を有しているのか、内臓に毒がある可能性も捨てきれない。
多少の逡巡ののち、石の刃で鱗ごと皮を剥ぎ、そこから覗く身をいくらか切り取り、そのまま食べた。生きる意義のない彼女には躊躇いがなかった。
生の身はぐにぐにとして、当時は知らなかったが、今思えば河豚の刺身をひとまとめにして食べたときの食感に似ていた。味は覚えていない。
食べれはした。それがわかれば問題ない。
意図して狩りはしないが、死んだ鯨が岸に打ちあげられたら集落の者たちで分け合って食べる。だから、人間より大きな生き物を口にするのに抵抗はなかった。今回はミチだけだったので一日かけてさばき、身や骨など部位を分けて干した。
翌日からミチはそれを食べて過ごした。生で口にしたのは最初だけで、以降は焼くか蒸した。身がなくなれば皮を、皮がなくなれば鱗や骨を砕いて湯で煮て、日数はかかったがすべてを平らげた。
放っておいて腐らせるよりは胃に収められるなら収めておいた方が、自然の摂理に適っている。
機械的に人魚だったものを処理していたミチは、食べきるとすることがなくなった。
すぐに食糧がある日々を過ごし満たされたからか、食欲も湧かない。その日は、陽が沈むまで浜辺に座し、海を眺めていた。集落のある方向と反対側のため、空と海以外映すものが何もなかった。
それから、何度か月が昇っては沈み、陽が昇っては沈みをくりかえした。
その間、ミチは浜辺にいた。
震える手で自身の頬に触れ、骨格を、肉付きを検める。乾燥していない、水すら口にしていないのに。やせ細り、輪郭が鋭利にもなっていない。自身が何も損なわれていないと知る。
飢えも、渇きも、疲労すらない。食べも寝もせずとも生きながらえてしまう。常人でなくなってしまった。
悟り、ミチは慟哭する。
生命尽きるのを待ち、夫の許へ逝くことすら叶わなくなった。およそ人間とは思えぬ叫び声であったが、小島には咎め怯える者はいはしない。
漣の音だけが浜辺を占めるように戻るまでいかほどかかったか、ミチはもう覚えていない。
耳に届くようになった漣は、ちょうど今の音に似ていた。
「慶さん、どうしたんですか。ぼーっとして」
「すまんな、少年。氷を削る音がずいぶんと淑やかになったものだと思ってな」
海に面したカフェだったが、室内で波の音は届きはしない。ふたりに届くのは、夏期限定商品の仕上がる音だ。
「氷菓子も多様になったものだな」
「前は、高級食だったんでしたっけ」
「ああ。削り氷に甘葛をかけたのを、酔狂な者の代のときには私にまで分けてくれたよ。今でいうとみぞれ氷に近いな」
それ以前は氷も酒も権力者のみに許されたもので、化物に分ける余裕などありはしなかった。氷室があるらしいと耳にした程度だ。氷の厚さで豊かさを推し量るようになった頃は、長命な存在は縁起ものとされ手厚い扱いを受けることもあった。削り氷を口にした経験があるのもそのためだ。
「気軽に食べられるようになったころの削り器からは、骨も削れそうな音がしたものだが」
「例え方」
物騒な例えに少年・青月は眉をひそめた。黒縁メガネの奥に隠されているが、花の顔がもったいない。なので、慶はすまん、とまた詫びた。
漣に似た音が止んでからしばらくして、店員が柄の長いスプーン二本とともにかき氷をもってきた。
「宇治金時氷お待たせしました」
対面で座すふたりの間のテーブルに小豆の餡が添えられ抹茶のかかった氷の器がどんと置かれた。中身の重さよりは、中身の体積に応じた硝子の器の重量音だった。宇治抹茶というが、白玉もあれば、甘露煮の栗まで添えられ豪勢であった。餡の赤みは濃く、小豆色というよりは葡萄茶に近い。それに白・緑・黄と、慶の想定よりも鮮やかだった。
「おぉ」
看板でみた写真よりも実物の方が大きく感じ、慶は思わず声をもらした。
「本当にこれで一人前なのか? 子どもの頭ぐらいあるぞ」
「例え方」
また釘を刺され、また慶は詫びた。どうしてこの人は、食欲減退するような言葉選びをするのか。自分には影響はないが、他の客の耳にでも入れば、営業妨害になりかねない。青月は、嘆息が零れるのを抑えられなかった。
「溶ける前にどうぞ。慶さん食べるの遅いんだから」
「む。少年が早食いなんだ」
人並みと主張するが、溶ける前に自身の速度で食べきれると思っていなかったゆえ、彼女は青月と分ける前提で注文したのだ。一般よりは速度が遅いか、一口が少ないといえる。
慶は、スプーンから少し余るかどうかの量を氷の山から掬い、そろりと口へ運んだ。自分の知る氷よりずっと細やかで、ただ白い何かだ。食感が想像できず、おそるおそる口に入れる。
最初に感じたのは金属製のスプーンの冷たさ、そのあとに咥内の熱で一瞬で溶ける繊維のような氷と広がる抹茶の味。
「消えたぞ、少年」
溶けるのを待つ余韻がなかった驚きを目の前の彼に伝える。青月は幼子のような反応をみせる彼女に、薄く笑む。
「少年も食ってみろ」
「いや、僕は」
興奮気味にもう一掬いした分を差し出してくる慶。眼前のスプーンに青月は当惑する。自身の分のスプーンもあるのだ。そう返そうと思ったが、あえてシロップや餡のかかっていない氷だけの部分が掬われていることに気付き、言葉が止まる。
仕方なく、少し腰を浮かして差し出されたそれを口にした。
「すぐ消えますね」
「だろう」
余韻すらないから、差し出されたスプーンの触感だけが残る。自身の手柄かのように満足げな彼女は、やはり幼子のようだ。
慶に餡や栗含め好きなだけ食わせ、青月は反対側から主に氷のみの部分を食べてゆく。口に入れた瞬間に溶けるとはいえ、口に残る抹茶や小豆を味わいながら食べ進める彼女は、やはり遅い。ふたりでひとつにしておいてよかった。いくら道楽とはいえ、そういくらも一度に食べたくはない。
ふたりが食べ終わるのはほぼ同時だったが、青月が三分の二以上腹におさめていた。
「縁日を思い出すな」
口に残る餡の甘さを、珈琲で和らげていた青月は視線で疑問を投げる。
「ほら、わた飴も萎まないうちにと手伝ってもらっただろう」
「そんなこともありましたね」
あのときも互いの食べる割合は同じだった。縁日の屋台には甘い飲料か炭酸しかなく、しばらく口のなかが甘かった。青月の容姿では酒は買えない。
「わた飴の方がまだ溶けるのが遅かった。ああ、わた飴のようだと例えればまだ愛らしかったかな」
「慶さんのは、媚びる以前の問題です」
小首を傾げてみせても、青月はむつりと珈琲を飲み進めるだけだ。こちらに可愛げを求めていないというが、彼だって愛嬌がない。十人中十人が絶世の美少年と謂わしめるであろう愛らしい顔の持ち主だというのに。
また漣のような音が届く、後にきた客が注文を終えたのだろう。その音に耳を澄ませ、遠いいつぞやの空と海を思い出す。
「君と食べると味がするな」
自身が変質した原因の味を慶は覚えていない。削り氷もそうだ。自分へと渡されたものは口にこそしたが、味の印象は霞んでしまった。だが、縁日のわた飴の甘さは覚えてる。今食べたかき氷も、思い返すことがあるだろう。彼とともに食すようになってからだ。
この道楽に付き合わせるようになったのはいつからだったか。飢えぬ自分と人と異なる飢えをもつ彼のふたりだけのとき、本来食事など不要だ。そして、出会ってしばらくは人間を装うときにしかしなかった動作だ。きっかけを思い出そうにも、とんと昔すぎて定かではない。きっと永く生きすぎて暇だったのだろう。慶はそう結論づけた。
いつまで続くかわからないのだ。これぐらいの暇つぶしをしたとて、時間は余りある。
飢えを凌げさえすれば期限がないのも同然の彼を、いくらでも道楽のみちづれにできそうだ。
「そろそろお暇しないといけませんね」
この店だけでなく、この地から。老いぬふたりは一所に留まってはいられない。
「なら今度の場所では、少年が選んでくれ」
「僕に任せたら甘味じゃないかもしれませんよ」
「いいさ」
次も味はする。





