壱:ハニートースト
からころりと高下駄が鳴る。
最近はコンクリートや石畳の道が多いので、よく鳴る。
大柄で派手な羽織を肩にかけ、長物を腰の位置で角帯で締めている。着流し姿であったが、纏うのは妙齢の女性だった。
長い黒髪を結ぶことなく、流れるままにしており、男性の装いのはずが妙にしっくりとくる。
ぴたり、と高下駄の音が止んだ。女性はある看板を通り過ぎかけ、そこで足を止めたのだ。
「少年」
「何ですか、慶さん」
彼女が視線を注ぐ先を追い、呼ばれた少年は看板の掲示を確認する。カフェで扱っている商品でハニートーストだった。ぶ厚い食パンがトーストされ、蜂蜜がたっぷりかけられ、バニラアイスものっている。頂点には飾りのミントの葉があった。商品名や価格だけでなく見栄えのよい写真付きの看板だ。
「食パンを切る手間を省いたんですかね」
「そう言うでないよ。かえって火を通す手間がかかるのだから、この厚みを一人で食すのが贅沢なんだろう」
贅沢を受ける優越が旨みを増す。このような視覚的暴力を世間近頃では映えというようだ。
開口一番が皮肉でありながら、少年も女性同様に看板へ、黒縁メガネ越しに視線を注いだままだった。
「急く旅でもない。どうだ」
「わかりました」
二人に逡巡はなく、店員に声をかけるとテラス席に通された。メニューを差し出されるも、入店前から食べるものは決まっており、飲み物も互いにカフェなら確実にあるもののため、受け取る前に注文は終えた。紅茶と珈琲、アイスかホットかなどが季節で異なる程度のものだ。
「少年。常々思うが、甘さを苦みで相殺するのは邪道じゃないか」
「甘いものは食べられますが、僕は甘党ではないんですよ。足し引き零にするぐらいでないと消化しきれません」
「消化か」
からころと高下駄の音にも似た軽やかさで女性は笑う。彼の口から消化なんて言葉がでるとは。ツボに入った理由を察して、少年は眉を顰める。
「慶さんだってヒトのこと言えないでしょう」
「少年、この世には『別腹』という便利な言葉があるのだよ」
受けた指摘を否定することなく、女性は笑みを深めるだけだ。とりとめもない言葉遊びをしているうちに、注文の品が運ばれてきた。
拳ひとつ分はあろうかという厚みの食パンがトーストされ、ほこほこと熱をまとっていることが目にもわかる。載せられたバニラアイスは球体に近かっただろうが、接地面がすでに溶け始めている。
いただこうか、はい、という短いやりとりのみで、溶けきるまえにと互いにナイフとフォークを手にした。
女性は切る前にさきにバニラアイスだけを口に入れた。少年は、アイスごと一角を切り抜き、蜂蜜で照り輝く食パンごと頬いっぱいに食んだ。口の中で温と冷がまじりあった味がする。女性の方は、口の中が冷えてから一口の大きさに切り取った食パンを咥内に入れ、急激に温まる舌の温度差とともに蜂蜜の甘みが拡がるのを堪能する。
「んん~っ」
これを求めていたのだと、女性の口からは満足の音が零れた。少年の方は無感想に食べ進めるが、気に入ったからこそ速度をゆるめていないのだと女性は知っていた。浸りながら食べる女性と異なり、少年はアイスが溶けきるまえに完食し、珈琲を飲みながら彼女が食べ終わるのを待つ。
口休めに紅茶を飲みながら食べるので、女性がトーストと紅茶を食べ飲みきるのはほぼ同時だった。後半バニラアイスは溶けてしまっていたが、蜂蜜とともにソースと化ししみた食パンを味わうのも一興だ。
「食パンをこんな食べ方をするようになるとはね。製鉄とともにこの国にきたときは思いもしなかったよ」
「そういえば、山型や角型のパンにはなんで『食』が付くんでしょうね」
「食用だからだよ。特に型に嵌めて焼いたものに限らず、主食用のパンの総称であるのが本来だ。海の向こうでは画材用のパンもあったから区別するための呼称だ」
「なるほど」
道具としても小麦を焼くことがあるのであれば、あえて食用とつけるのも頷ける。
ごちそうさま、と両手を合わせた女性は、ついと視線を脇へずらした。
「さて、見られているな」
「だから、目立つのはやめてくださいって言ってるじゃないですか。慶さん」
学生服で、学校帰りにでも寄ったのだろう少女たちが風変りな格好の女性と少年の組み合わせに興味津々といった眼差しを向けている。ファッションの幅広い時代といえど、女性の長物の着方は浮くようだ。
「私に魅力がある以上、仕方ないだろう。それにこの格好の方が自然になる」
からころと笑い状況を楽しむ女性に、少年は嘆息ひとつ。それから、メガネを外し少女らへにこりと一度微笑みかけた。
レンズがぶ厚く顔がわかりづらかったが、ゆるやかな青銀の髪をした少年は大層な美貌の持ち主だった。睫毛は長く、金緑色の瞳は光の角度によっては金色となり魅入ってしまう。その目を細め、花が綻ぶような笑みを浮かべられては、少女らはぽうと正気を失ってしまう。
「まぁ、少年には敵わないがな」
夢うつつとなった少女らを横目に、女性は席を立つ。少年もメガネをかけ直し、それに追従した。
少女のひとりの肩にのしかかっていた黒い塊も、女性の目から消え去っていた。目や口はあったが位置も大きさも一定に定まらず、人の形を忘れた妄執の残骸。常ならざるモノを視る見鬼が女性ができ、少女に憑いた怨霊ごと視線を浴びていた。それがもうない。
ファッション誌の読者モデルだといわれれば納得できる愛らしい少女だった。ストーカーなどが湧いてもおかしくない。きっとそのいずれかが死後もつきまとっていたのだろう。なんとも迷惑なことである。
「そんなに美味そうかね」
「どうして僕に訊くんですか」
店のドアが閉まるとともにドアベルの音も密やかになる。代わりにからころと高下駄が石畳を打ちだす。店内へ誘う短い遊歩道を逆行し、入口の蔦のアーチをくぐりでると、女性は隣の頭を抱え込むように腕を伸ばし、顎を持ち上向かせた。
わずかにふらつきかけていた少年は、抵抗する余裕なく口を塞がれる。こくり、と唾以外も含めて嚥下したのを確認してから、女性は顔を離し、にまりと口角をあげた。
「だって、少年の主食はこっちだろう」
彼女を狙いかけていたものを消した分だけの精気を得て、少年の足取りは確かなものへと戻る。ただし、その顔には不服が描かれていた。愛らしい顔が台無しだ。
「非常食に美味しいも何もありませんよ」
「空腹は一番の調味料というのに」
からころと鳴るのは高下駄か、彼女の笑い声か。
楽しげなその音が遠ざからないよう、致し方なく少年はその背を追うのだった。





