EP 5
最強騎士の夜食と、冷えた心に染みる出汁
ポポロ村役場での初出勤日は、予想を遥かに超える激務だった。
定時退社を掲げて意気揚々と出社した私だったが、前村長が残した負の遺産は想像を絶していたのだ。
杜撰な戸籍管理、計算の合わない税収記録、そしてなぜか羊皮紙の裏に書かれた謎の「暴行しない券」なる怪しげなサブスク契約のリスト。
キャルル村長は人が良すぎるため、これらの理不尽な処理を一人で抱え込んでパンク寸前になっていたらしい。
私は前世の総務課で鍛え上げられたエクセル的思考と事務処理能力を限界まで引き出し、書類の山と格闘し続けた。
結果として、初日から見事な残業である。
「はぁ……終わったぁ……」
夜の十時を回った頃、ようやく本日のノルマを終えた私は、重い足取りで役場を後にした。
夜風が冷たい。
アパートに帰れば、極貧アイドルのリーザが待っているはずだが、彼女は「明日の路上ライブに備えて早く寝ますわ!」と宣言していたので、恐らく今は夢の中だろう。
ぐぅぅ……と、情けない音が鳴った。
お腹が空いた。お昼に持参した米麦草のおにぎりを食べたきりだ。
とぼとぼと村の中央広場を歩いていると、ふわりと温かくて食欲をそそる匂いが漂ってきた。
出汁と、醤油と、甘辛く煮込まれた肉の香り。
匂いの元を探すと、広場の一角にある木造の大きな建物の窓から、オレンジ色の温かい灯りが漏れていた。
看板には『大衆食堂 ポポロ亭』と書かれている。
ダインさんが料理長を務めているというお店だ。
(まだ、やってるのかな……)
吸い寄せられるように店の前まで行き、そっと木製のスイングドアを押し開ける。
カラン、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あ、申し訳ありません、本日の営業はもう……」
カウンターの奥で、白い割烹着姿のダインさんが洗い物をしていた。
彼は私を見ると、ぱちぐりと目を瞬かせた。
「リカさん? こんなに遅くに、どうしたんですか?」
「あ、すみません……役場の仕事が長引いちゃって。通りかかったら、すごく良い匂いがしたから、つい……。もう閉店ですよね、ごめんなさい」
私が慌てて引き返そうとすると、ダインさんは慌てた様子で手を振った。
「い、いえ! 待ってください! お腹、空いているんですよね? もしよければ、何か作りますよ!」
「えっ、でも片付け中なのに悪いですよ……」
「僕が、リカさんに食べていただきたいんです。初日からそんなに遅くまで働いて……顔色が悪いですよ。少しだけ、待っていてくださいね」
ダインさんは、いつもの困ったような、それでいてひどく優しい微笑みを浮かべ、私をカウンター席へと案内してくれた。
温かいほうじ茶のような陽薬草茶を出され、ほっと一息つく。
厨房では、ダインさんが手際よく鍋を火にかけ、何かを準備し始めた。
「役場の仕事は、大変でしたか?」
「はい……もう、前村長が残した書類がめちゃくちゃで。でも、全部フォーマット化してやったので、明日からはもっと早く帰れるはずです」
「ふふ、リカさんはすごいですね。キャルル村長も、リカさんが来てくれて本当に助かると言っていましたよ」
ダインさんの柔らかい声を聞いていると、不思議と張り詰めていた神経が解れていく。
前世の社畜時代は、深夜に帰宅しても誰の声も聞こえなかった。コンビニの蛍光灯の眩しさと、電子レンジの無機質な機械音だけが、私の深夜の相棒だった。
「お待たせしました。『月見大根とシープピッグの出汁染みおでん』です」
コトン、と目の前に湯気を立てる大きなお椀が置かれた。
澄んだ琥珀色の出汁の中に、満月のように丸くて分厚い月見大根、肉厚なシープピッグ(羊のような豚のような魔獣らしい)の角煮、そして色鮮やかな練り物が品良く盛り付けられている。
添えられた辛子が、ツンと心地よく鼻をくすぐる。
「うわぁ……すっごく美味しそう……!」
「熱いので、気をつけて食べてくださいね」
私は箸を取り、「いただきます」と手を合わせてから、まずは大きな月見大根を二つに割った。
スッ、と信じられないほど滑らかに箸が入る。
大根の断面は、芯の奥の奥まで琥珀色の出汁が染み込み、宝石のように透き通っていた。
フーフーと息を吹きかけ、一口齧る。
「んんっ……!」
口に含んだ瞬間、熱々で上品な出汁の旨味が、ジュワァァッと爆発した。
大根特有の甘みと、シープピッグから溶け出した動物性のコク深い脂。それが絶妙なバランスで絡み合い、噛まなくてもとろけるほどに柔らかい。
「美味しい……! なにこれ、大根の中までこんなに味が染みてるなんて……! 煮込むのにすごく時間がかかるんじゃないですか?」
「口に合ったようでよかったです。実はそれ、煮込み時間はそこまで長くないんですよ」
ダインさんは照れくさそうに頭を掻いた。
「出汁で煮る前に、ほんの一瞬だけ、食材を急激に『凍結』させるんです。そうすることで細胞壁に微細なひびが入り、煮込んだ時に出汁が驚くほど早く、深く染み込むんですよ」
「凍結……? それって、氷魔法で?」
「はい。僕の氷魔法の、数少ない役に立つ使い道です。……戦うこと以外で、誰かのために使えるのが、嬉しくて」
彼は少しだけ寂しそうに伏し目がちになり、自らの手を見つめた。
あの野盗を氷漬けにした、恐るべき魔法と握力。彼は自身のその強大な力を、本当は疎んでいるのかもしれない。
でも、私にとっては。
「そんなことないです。ダインさんの魔法は、すごいですよ」
「え……?」
「だって、こんなに美味しいご飯を作れるじゃないですか。野盗から助けてもらった時もすごくカッコよかったですけど、私は、ダインさんのこの優しい料理が大好きです」
私はとろとろのシープピッグの角煮を頬張りながら、心の底からそう伝えた。
ダインさんは目を丸くした後、ふわりと、耳まで真っ赤にしてはにかんだ。
「あ、ありがとうございます……。リカさんにそう言っていただけると、料理人冥利に尽きます」
温かいおでんを次々と平らげていく。
胃袋に染み渡る出汁の温かさが、全身の血の巡りを良くし、強張っていた筋肉を優しく解きほぐしていく。
(……美味しい。本当に、美味しいな……)
ふと、視界が滲んだ。
前世での記憶が、ふいにフラッシュバックする。
深夜一時。真っ暗なワンルームマンション。
疲れ果てて座り込んだフローリングの上で、プラスチックの容器に入った冷たいコンビニおでんを食べていた日々。
誰からも「お疲れ様」と言われず、ただ明日への恐怖を誤魔化すために食べ物を胃に詰め込んでいた。
それが今は、どうだろう。
温かい灯りの下で、私のために作られた、世界で一番美味しい特別なおでん。
目の前には、私を気遣い、優しい言葉をかけてくれる人がいる。
「……っ、ふぐっ……」
油断すると、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
慌てて拭おうとするが、一度決壊した涙腺は止まらず、後から後から涙が溢れてくる。
「えっ!? リ、リカさん!? ど、どうしました!? もしかして辛子が効きすぎましたか!? すみません、僕の味付けがっ……!」
ダインさんがオロオロと慌てふためき、お茶を差し出そうとしたり、オシボリを探したりとパニックになっている。
「ち、違います……っ、美味しくて……っ、美味しすぎて……!」
「え……?」
「私、ずっと一人で、冷たいご飯ばっかり食べてたから……。誰かが私のために、こんなに温かくて美味しいものを作ってくれたのが、嬉しくて……っ」
ボロボロと泣きながらおでんを食べる私を、ダインさんは驚いたように見つめていた。
恥ずかしい。元社畜の二十四歳が、人前でおでんを食べながら号泣するなんて。
急いで涙を拭おうとした私の目の前に、そっと、清潔な白いハンカチが差し出された。
「……頑張っている貴女には、温かいものを食べてほしかったんです」
顔を上げると、ダインさんが、いつもの困り眉をさらに下げて、この上なく優しい、慈しむような微笑みを向けていた。
「リカさんは、今日一日、村のためにすごく頑張ってくれました。だからこれは、僕からのほんの感謝の気持ちです」
「ダイン、さん……」
「これからは、いつでも僕の店に来てください。リカさんが望むなら、毎日でも、温かくて美味しいご飯を作って待っていますから」
差し出されたハンカチを受け取ると、それはふわりと温かく、清潔な石鹸の匂いがした。
そっと目元を押さえる。
借金百万を背負わされ、見知らぬ世界に放り出された不安と絶望。
社畜時代から凍りついていた私の心は、彼が差し出してくれたハンカチの温かさと、胃袋を満たす極上の出汁によって、あっけなく解かされてしまったのだった。




