EP 10
月夜の夜食と、少し甘い誓い
ポポロ村に来て、約一ヶ月。
私は今日、異世界転生してから初めての『運命の日』を迎えていた。
「よし……っ!」
誰もいない夜の村長室で、私は一人、首から下げた『エンジェルすまーとふぉん』の画面を見つめながら小さくガッツポーズをした。
画面には、【今月のお引き落とし:68,000円 完了いたしました】の文字が燦然と輝いている。
無事に、一回目の借金返済をクリアしたのだ!
「はぁぁ……よかったぁ……!」
安堵のあまり、私はデスクに突っ伏した。
あの恐ろしい『黒服天使レスラー』が天界から降りてきて、マグローザ漁船にドナドナされる最悪の未来は、とりあえず一ヶ月先送りになったのだ。
キャルル村長から初任給としていただいた手取り二十五万円。そこから借金の返済分と、アパートの家賃三万円を引いても、まだ十五万円以上手元に残っている。前世の社畜時代は、家賃と奨学金の返済、それに謎の天引きで手元に残るお金なんてスズメの涙だったというのに。
「異世界の公務員、最高……」
机の冷たさに頬をすりすりしながら、私は幸せを噛み締めていた。
今日は給料日ということもあり、リーザにはタローマートで買った少し高めの鶏肉を持たせて、アパートに帰してある。今頃きっと、自分で焼いて狂喜乱舞しながら食べていることだろう。
私はといえば、明日の会議に向けた資料の最終チェックをしていたため、少しだけ残業になってしまった。
「定時退社」を目標に掲げてはいるものの、自分の仕事が村の人たちの役に立っているという実感が心地よくて、ついつい筆が進んでしまったのだ。
「ぐきゅるるるるるぅぅ……」
静かな部屋に、私の情けない腹の虫の音が響いた。
しまった。仕事に集中しすぎて、夕飯を食べるのをすっかり忘れていた。
今からアパートに帰って自炊する気力はない。かといって、この時間ではさすがにタローソンのお弁当も売り切れているだろう。
「うーん……ひもじい」
机に突っ伏したまま恨めしげに窓の外を見つめていると、コンコン、と控えめなノックの音が聞こえた。
「はい? どなたですか?」
「夜分遅くにすみません。ダインです」
「えっ、ダインさん!?」
慌てて居住まいを正すと、ドアがゆっくりと開き、白い割烹着姿のダインさんが顔を出した。
彼の手には、布を被せたお盆が乗せられている。
「まだ明かりが点いていたので、もしかしてリカさんが残っているんじゃないかと思って。……あの、お邪魔でしたか?」
「とんでもないです! ちょうど仕事が一段落したところだったんです」
「よかったです。……実は、リカさんに夜食を持ってきたんです。よければ、召し上がりませんか?」
ダインさんがお盆をテーブルに置き、被せていた布を取る。
ふわりと、鼻をくすぐる極上の出汁の香りが部屋いっぱいに広がった。
大きなどんぶりに入っていたのは、透き通った琥珀色のつゆに、つるつるとした白い麺が泳ぐ『特製出汁うどん』だった。上には、薄切りのシープピッグの肉と、彩り鮮やかな陽薬草の天ぷらが乗っている。
「うわぁぁ……! めちゃくちゃ美味しそうです!」
「疲れが取れるように、少しだけ生姜を効かせてあります。冷めないうちにどうぞ」
私はダインさんに促されるまま、ソファーに座って箸を手に取った。
「いただきます」と手を合わせ、まずはつゆを一口すする。
「んんっ……!」
じんわりと、胃袋の底から温かさが染み渡っていく。
シープピッグのコクのある脂と、上品な出汁の旨味。そこにピリッと効いた生姜の風味が、疲れた身体の隅々の細胞まで染み渡るようだった。
麺をすすると、もっちりとした弾力がありながらも、喉越しは驚くほど滑らかだ。陽薬草の天ぷらはサクサクで、噛むとほろ苦い風味が口の中に広がり、それがまた出汁の甘みを引き立てている。
「美味しい……! 本当に、最高に美味しいです!」
「ふふっ。リカさんがそう言ってくれると、作ってよかったと心から思います」
私の食べっぷりを見て、ダインさんは困り眉を下げて、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
その無防備で優しい笑顔に、私の心臓がトクン、と小さな音を立てる。
「ダインさん、いつもありがとうございます。私、ダインさんのご飯を食べるために毎日仕事頑張ってるようなものですから」
「そんな、大袈裟ですよ。……でも、嬉しいです」
ダインさんは少し照れくさそうに視線をそらし、窓の外の月を見上げた。
今夜は満月だ。青白い月光が窓から差し込み、彼の横顔を優しく照らしている。
「リカさんが来てから、ポポロ村は少しずつ変わってきています。キャルル村長も無理をして倒れることがなくなりましたし、村の人たちも、役場の手続きが早くなったと喜んでいます。ニャングルさんも、リカさんのことを手放しで褒めていましたよ」
「えへへ、事務仕事しか取り柄がないので、そう言ってもらえると嬉しいです」
「……リカさんが村のためにどれだけ頑張っているか、僕が一番よく知っています。だから、リカさんが疲れた時は、いつでも僕が温かいご飯を作ります。それくらいしか、僕にはできませんから」
ダインさんの言葉は、どこまでも優しく、そして真っ直ぐだった。
前世では、誰かにこんな風に労ってもらったことなんて一度もなかった。
私の頑張りを見てくれている人がいる。私のために、温かいご飯を作ってくれる人がいる。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
「そんなことないです。ダインさんのご飯は、私にとって最高の魔法ですよ」
私がどんぶりを両手で包み込みながらそう言うと、ダインさんは少しだけ真剣な表情になった。
そして、テーブルの下で、ギュッと拳を握りしめるのが見えた。
「……リカさん」
「はい?」
「僕は、争いごとが嫌いです。剣を握るのも、本当は好きじゃありません。……でも」
ダインさんの声が、微かに震えていた。
それは恐怖からではない。何かを強く決意したような、静かな震えだった。
「もし、この村に……リカさんに、何か危険が迫った時は。その時は、僕が絶対に、貴女を守りますから」
その瞳には、あの夜盗を素手でねじ伏せた時のような冷徹さはなかった。
ただ、大切なものを守りたいという、純粋で不器用な熱だけが宿っていた。
気弱で、争いが嫌いで、いつもオドオドしている彼が。
私のために、そんな誓いを立ててくれた。
「ダイン、さん……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。
出汁の温かさとは違う、もっと甘くて、くすぐったい熱。
「あ、すみません! 急に変なこと言って! 忘れてください! 僕はただの料理人で、その、ひ弱ですし……!」
「ふふっ。ひ弱な人が、素手で剣を握り潰したりしませんよ」
「うぅ……あれは、手が滑っただけで……」
顔を真っ赤にして慌てふためくダインさんを見て、私は思わず吹き出してしまった。
やっぱり、この人は可愛い。
可愛くて、強くて、優しくて――ずるい。
「ありがとう、ダインさん。その時は、よろしくお願いしますね」
私が微笑みかけると、ダインさんは耳まで真っ赤にしながら、こくりと頷いた。
窓の外には、丸く輝く満月。
静かな夜の村長室で、二人きり。
月明かりの下、極上の夜食と彼の優しすぎる瞳に、私の心臓はかつてないほどトクンと大きく跳ねた。
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