4-1.元夫からの封書
夏の始まりを告げる風が、窓を揺らした。
アンナは、窓から差し込む午後の光を浴びながら、キャンベル子爵領の健全化に向けた最後の手続きを進めていた。不正役人を排除し、流通経路を整えた。次に何をすべきかが見えていた。それが、とても心地よかった。
侍女が封書を持ってきたのは、農家の申告書と、来年の作付け計画を照らし合わせていたときだった。
「使者が届けてまいりました。シュルツ伯爵家の紋章が入っております」
アンナが五年間、身を粉にして領地を守り、そして無惨に追い出された場所からの便りだった。
アンナは封書を受け取り、裏の封蝋を確かめた。見間違えるはずがない、シュルツ伯爵家の獅子の紋章。アンナは小さく息を吐き出してから、ナイフで封を切った。
筆跡はモーリスのものだった。
『アンナへ。諸々の事情が変わった。シュルツ伯爵家に戻ってきてほしい。君の力が必要だ。詳しくは会って話したい』
短い文章だった。謝罪も、説明もない。一方的に、必要だと書かれていた。
アンナはしばらく手紙を見つめたが、何も感じなかった。驚きも、怒りも、感傷もなかった。アンナがシュルツ伯爵領で過ごした五年間は、遠い昔の記憶になっていた。
アンナは抽斗から羊皮紙を出し、羽根ペンを取った。
『モーリス・シュルツ伯爵様。お手紙を拝受しました。お申し出はお受けできかねます。どうかお体に気をつけてお過ごしください』
書き終えてから、最後の一文を眺めた。消そうかと迷ったが、消さなかった。貴族婦人としての礼儀は持っていた。
アンナは封をして、封書を侍女に渡した。
その夜は、よく眠れた。
翌朝も、アンナは書斎で書類の山に囲まれていた。来年の種麦の調達先、輸送経路の変更、冬に備えて修繕すべき農道の優先順位、やるべきことは山積みだった。
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アンナが封書を送った三日後。シュルツ伯爵邸でその返信を受け取ったモーリスは、逆上して手紙を握りつぶした。
「なぜだ! なぜ戻ってこない! 伯爵である俺の依頼を断って、あんな落ちぶれた子爵のところで何をしている!」
モーリスの精神は限界に達していた。
隣国のグラーフェン侯爵領との交易はなくなり、小麦が売れずに生活が困窮した領民が暴動を起こした。救援を求めた周辺貴族からは、丁重に断られた。愛していたケイトはブラックソーン男爵家に帰った。
すべてはアンナがいれば解決していたことだった。
モーリスにとって、アンナは「都合の良い道具」だった。その道具がモーリスに従わない理由はただ一つ。ポール・キャンベルが、アンナをそそのかしている。モーリスはそう結論付けた。
「キャンベル子爵家が没落すれば、行くあてを失ったアンナは泣きついてくるだろう」
歪んだ憎悪を募らせたモーリスは、王都で知り合った男を通じて、北の山に潜む盗賊団にある任務を依頼した。その依頼は、ポール・キャンベルの希望を焼き尽くすこと。収穫期を控えた広大な小麦畑への放火だった。
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モーリスに封書を送ってから十日後の夜明け前、アンナは異臭で目を覚ました。
ベッドから飛び起きたアンナは窓を開けた。
「火事だ! 北の麦畑から火がでたぞ!」
領民の声が聞こえた。北の方角に視線を移すと、空が茜色に染まっていた。
丘を越えたところに、キャンベル領最大の小麦畑が広がっている。その区画の南端が赤く燃えていた。風に乗って火の粉が舞い、燃え移っていく。
アンナは外套を羽織って部屋から出ると、ポールの寝室へ走った。
「家人を全員集めてください。村の住民にも声をかけます」
二人は家人を連れて、馬で北へ向かった。
アンナは馬で小麦畑を回って指示を出した。子どもや老人の安全な場所へ誘導、消火のために水路の堰を全開にし、延焼を防ぐために畑の一部を刈り取って防火帯を作った。
シュルツ伯爵領での五年間、ウィンストン子爵領での治水事業、キャンベル子爵領での調査。数々の修羅場を通った経験が、アンナの判断の支えとなった。
日がすっかり登った頃、鎮火した。延焼した区画は、小麦畑全体の五分の一ほどだった。甚大な被害ではあったが、アンナの迅速な指示によって、被害は最小限に抑えられた。
煤で顔を汚したアンナとポールは、無事に残った小麦畑を眺めて、深く息を吐き出した。これで、領民が飢えることはない。
アンナは火災の原因を特定するため、現場となった小麦畑を馬で回った。
小麦畑の燃え方が、おかしかった。乾燥した季節ではあるが、小麦畑は火の気のない場所であったし、自然発火の原因となりそうな落葉や枯草はなかった。
さらに、風上から風下へ燃え広がった火が、三カ所に分散していた。飛び火したとしては、距離が離れすぎていた。つまり、火元は一つではなく、三つだった。
アンナは火元の焦げた土を手に取ると、鼻を近づけた。油の臭いがした。
アンナはポールの元に馬を走らせた。
「これは失火ではありません。誰かが放火したのです。放火犯を捜索してください」




