2-2.伯爵家の衰退
領地経営を失敗したモーリスをさらに追い詰めたのは、周辺貴族との関係だった。
アンナが去った後、この問題は静かに進行していた。
アンナがいた頃、シュルツ伯爵家は社交界の中心にいた。アンナは定期的に、領地の特産品や季節の花を貴族婦人に贈り、お茶会を催した。それは一見、華やかな遊興に見えるが、実際には情報の交換や、領地間のトラブルを穏便に解決するための外交手段であった。
「減収をまかなうためにも、交際費の削減をされてはいかがでしょうか?」
財務顧問のルッツは石炭の関税引き上げに伴う税収減を、費用削減でまかなおうとした。
周辺貴族への贈り物、茶会は帳簿上では交際費として計上されており、モーリスは常々無駄な支出だと考えていた。モーリスはルッツの提案を採用し、交際費の予算を廃止した。贈り物は廃止、茶会は開催せず、挨拶回りも省かれた。
フォーゲル子爵夫人は、贈り物が来ないことに首をかしげた。ハルトマン男爵夫人は、楽しみにしていた春の茶会の招待が届かなかった。
周辺貴族との交流が途絶えて、一年が過ぎた頃に、外交問題は表面化した。
フォーゲル子爵家との間で境界線のトラブルが起きた。かつてならアンナが夫人を通じて穏やかに解決していたはずが、相手方は一切の交渉を拒否した。
モーリスが水路の補修資材を融通してほしいとハルトマン男爵に使者を送った際には、「生憎と余裕がなく」という丁重な断りがあった。
五年をかけてアンナが築いた周辺貴族との信頼関係は、少しずつ、静かに失われていった。他領の貴族たちは、シュルツ伯爵家の没落をあざ笑うかのように、次々と交流を断っていった。
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ルッツは「一身上の都合」を理由に辞職した。後任の財務顧問は半年で辞めた。今の顧問は三人目だが、その表情には疲弊の色があった。
「モーリス、なぜ今月はドレスを新調してくれないの?」
追い打ちをかけるように、正妻となったケイトの不満の声が響いた。
ケイトは美しかった。社交の場では誰もが振り返る、黒髪と白い肌の令嬢だった。
ケイトはかつて愛人としてモーリスの寵愛を一身に受けていたが、いざ正妻になれば、そこにあるのは不満ばかりだった。アンナがこなしていた膨大な家政や社交の仕事を引き継ぐ気はない。ケイトにとって正妻とは、「贅沢を謳歌する者」でなければならなかった。
「黙れ、ケイト! 今それどころではないと言っているだろう!」
「ひどいわ! あなた、アンナがいた頃はもっと余裕があったじゃない。私を幸せにすると言ったのは嘘だったの?」
領地の荒廃、隣国との確執、貴族社会での孤立。そして、愛したはずの妻との絶え間ない罵り合い。
モーリスの目の前には、かつて美しく豊かだったシュルツ伯爵家の残骸が横たわっていた。
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その夜、モーリスは珍しく酒を飲まずに書斎に座っていた。
机の上には書類が積み重なっていた。グラーフェン侯爵領からの外交文書、農民からの陳情書、ハルトマン男爵からの書面、税収報告書。
モーリスはアンナが残した引き継ぎ書類を、ふと思い出した。
離婚の際、アンナが残した書類だ。農民への貸付金の返済予定表、設備投資や修繕の一覧、周辺貴族との関係維持のための社交術。几帳面な筆跡で書かれた書類を、モーリスは一瞥しただけで、金庫の奥に仕舞っていた。
モーリスは引き継ぎ書類を取り出した。
実務上の手続、過去の数値の他、石炭の関税については「優遇税率は税収減を超える利益が見込めるものであるため、関税の引上げをしないこと」、周辺貴族との交際費については「相互扶助の基盤であるため、出し惜しみしないこと」と書いてあった。
石炭の優遇税率と周辺貴族との交際費。どちらも、モーリスが不要と判断したものだった。アンナはシュルツ伯爵領の危機を回避するため、予め忠告していたのだ。
モーリスはしばらく、その文章を見つめた。
窓の外には星がきらめいていた。虫の声が聞こえた。目の前に突き付けられた現実から逃避すれば、何もかもが穏やかな夜だった。
モーリスは机の上に置かれていた未開封の封書を手に取った。差出人は、かつてモーリスの父の補佐をしていた書記だった。今は引退して、隣の町で余生を送っているはずの男からの、短い手紙だった。
『ウィンストン子爵領に水路が完成したとのこと、ご存知でしょうか。アンナ様が陣頭指揮をされたとか。来年の収穫は期待できるとのことです』
それだけが書かれていた。モーリスは手紙を破り捨てた。
「お前まで私を馬鹿にするのか!」
シュルツ伯爵領の今年の収穫は例年の六割に届かない見込み、と報告書にあった。アンナが去ったシュルツ伯爵領は落ちぶれ、アンナが戻ったウィンストン子爵領は繁栄する。
「なぜだ!」
モーリスは握りしめた拳を、机に叩きつけた。天井を見上げても、答えはなかった。
どこにも、なかった。
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