2-1.誤算
春の陽光が、シュルツ伯爵領に降り注いでいた。
アンナが去る前は、その光景は輝いて見えた。屋敷を囲む葡萄畑、丁寧に刈り込まれた生垣、季節の花を絶やさぬ花壇。輝く色と香りが満ちていた。
しかし今は、庭師は三人から一人に減り、花壇には雑草が混じっていた。庭が色を失い、領民の活気ある声もなくなっていた。その変化に気づく者も、指摘する者も、シュルツ伯爵邸にはいなかった。
モーリスは書斎の机に広げた管理簿を睨みつけていた。手にした羽根ペンは苛立ちで震え、羊皮紙に黒い染みを作った。
「なぜだ……。計算では、昨年の倍の税収があるはずだったのに」
問題の発端は、昨年の秋に遡る。
アンナとの離婚が成立したモーリスは、自分の手でシュルツ伯爵領を黄金の山に変えられると確信していた。その第一歩としてモーリスが断行したのが、隣国のグラーフェン侯爵領との貿易における、石炭の関税引き上げだった。
アンナはグラーフェン侯爵領から輸入する石炭に対して優遇関税を適用していた。隣国との友好関係を保ち、代わりに自領の小麦を無関税で輸出するための貿易協定だった。さらに、この貿易協定によりシュルツ伯爵領は、グラーフェン侯爵領から安価に輸入した石炭を、国内の他の領地へと販売する重要な交易路を握った。アンナがグラーフェン侯爵と締結した貿易協定は、シュルツ伯爵領に莫大な利益をもたらした。
関税引き上げを発案したのは、新たに雇い入れた財務顧問のルッツだった。モーリスは王都の友人から、いくつもの領地で実績がある、とルッツを紹介された。
ルッツは禿頭に金縁の眼鏡をかけた小太りの男で、弁舌だけは滑らかだった。
「税収を二倍にするには、石炭の関税を二割引き上げれば良いのです」
モーリスはルッツの提案を聞いて、即座に関税引き上げを決断した。石炭の輸入量が同じであれば、関税を引き上げれば税収が増える。モーリスは細かな計算は苦手だったが、ルッツの理屈は理解できた。
ルッツが見落としていたのは、グラーフェン侯爵と締結した貿易協定は排他的な契約ではなかった点であった。グラーフェン侯爵領はシュルツ伯爵領以外の領地にも石炭を輸出できる。つまり、シュルツ伯爵領の石炭の輸入量は変動する。
関税の引き上げをグラーフェン侯爵に通知した後、まず動いたのは石炭商人だった。関税の上がったシュルツ伯爵領を避けて、より関税の低い領地に輸出した。
この結果、シュルツ伯爵領の石炭の輸入量は関税引き上げ前から九割減少し、税収は予想を大きく下回った。
さらに、グラーフェン侯爵は関税の引き上げに対する報復措置に出た。
『我が領が輸入する小麦に対し、関税を二割引き上げる』
グラーフェン侯爵の使者は簡潔な書状を携えてきた。この通知が、シュルツ伯爵領の農家の収入に直撃した。
「国境で、我が領の小麦が足止めを食らっています。関税が高すぎて、買い手がつかないのです!」
領地の有力農家たちが、血相を変えて屋敷に押し寄せた。
グラーフェン侯爵領は、シュルツ産小麦の最大の輸出先だった。シュルツ産小麦は品質が良いことで知られていたが、関税引き上げによる価格高騰には勝てなかった。グラーフェン侯爵領には他の領地から輸入した安い小麦が溢れ、シュルツ産小麦は行き場を失った。
秋の終わりには、小麦農家の代表が伯爵邸を訪れた。日に焼けた顔に疲労を滲ませた農夫が、帽子を胸に抱えて頭を下げた。
「どうか今年の納税を、春まで待っていただけませんでしょうか。小麦が売れず、資金がありません」
「うるさい! 黙れ! 農民風情が俺に意見するな!」
モーリスは農夫の顔も見ずに追い払った。
「税金を納められないのであれば、家畜を差し押さえればよろしいかと」
ルッツは熱を帯びた口調で、モーリスに提案した。
その翌週、モーリスは徴税官を村へ送り込んだ。徴税官はモーリスの指示どおりに、容赦なく家畜を差し押さえた。翌年の種籾、冬を越すための食糧までも強引に奪い去る徴税官もいた。
その後も、収入が途絶えた農家から納税猶予の訴えが相次いだ。しかし、自らの失策を認めたくないモーリスは、訴えを全て無視した。
かつてアンナが領民たちと築き上げた信頼は、モーリスの失策によって無惨に引き裂かれていった。




