1-3.先人の軌跡
工事は夏の初めに始まった。
領民たちは最初、アンナの始めた治水事業に懐疑的だった。伯爵家から出戻った子爵令嬢に治水工事などできるのかと、陰口を叩く領民もいた。
アンナは毎日現場に出た。つるはしを持ち、泥が跳ねてもひるまず、作業を指示し、進捗を管理した。工事は順調には進まなかった。掘削が困難な場所が出るたびに、水路を迂回させる必要があった。測量をやり直し、図面を書き直し、工事の修正を指示した。
懐疑的だった領民も、真剣に治水工事に関わるアンナの姿を見て、次第に協力的になった。
それでも、工事の進捗は予定よりも二か月遅れていた。進捗の遅れは、工事費用の増加につながる。何かいい方法はないか……アンナは長いため息をついた。
「図面を見せてくれませんか?」
ぼんやりと図面を見ていたら、老人の声がした。アンナが作業員として雇った領民ではなかった。老人はハンスと名乗った。
父の代から農地管理を担ってきたハンスは、何か助言ができるかもしれない、と声をかけたそうだ。ハンスは図面を見て、眉をひそめた。
「何か?」
「こちらに水路を作るのは、お勧めしません。高低差がありすぎます。大雨が降れば水路が氾濫するでしょう」
「それなら、どうすれば?」
「そうですね……五十前には、この岩の下にフォルク川の支流が流れていました。もともと川だった場所を水路にしたほうが、水流は安定するでしょう」
「では、岩の下に水路を通せばいいのですね」
アンナはハンスと岩の下へ視察に行った。地図では確認できなかったが、かつての支流は他の場所よりも低くなっており、掘削作業が少なくて済む。作業期間を短縮できれば、工期の遅れを取り戻せそうだ。
アンナはかつての支流を眺めて、鳥肌が立つのを感じた。ウィンストン子爵領の小麦畑は五十年前のフォルク川の流域に広がっていた。この場所を開拓した先人たちを想った。これは単なる治水工事ではない。ウィンストン子爵領の先人の軌跡をたどる旅なのだ。
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ハンスの助言に従い水路の計画を変更してから半年後。冷たい風が吹く夕暮れ、乾いた小麦畑に冷たい水が流れ込んだ。
最初はか細い流れだった。茶色く濁り、石を転がし、恐る恐る水路を流れた。それが徐々に水量が増し、水深が深くなり、やがて力強い音を立てて、ひび割れた小麦畑へと流れ込んだ。
「水が……水が来たぞ!」
水路を見守っていた、作業員の誰かが声を上げた。
子どもが走り出し、老婆が両手を顔に当てた。ハンスは黙って川を見つめていた。五十年前の記憶が蘇ったのかもしれない。その目尻に光るものがあった。
アンナは人混みを避けて後ろへ下がった。涙の粒がこぼれそうに溜まっているのを、誰にも見られたくなかった。
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次の春、ウィンストン子爵領の小麦は豊作だった。収穫量は前年の約二倍。これで領民が飢えに怯える心配はない。借金の返済額を差し引いても、ウィンストン子爵家には十分な資金が残った。
ある夜、アンナが書斎で書類の整理をしていたら、父が訪ねてきた。
「お前は、怖くなかったのか?」
「何がですか?」
「全部だ。シュルツ伯爵に離婚されて、ウィンストン子爵家に戻ってきた。治水工事に協力してもらえなくても、それでも工事を続けて……」
アンナは羽根ペンを指の間で転がしながら、遠くを見つめた。
「怖かったですよ」と、正直に答えた。
「毎晩、失敗した場合の計算をしていました。損失額はいくらか、借金の返済を待ってもらうための材料はないか、ウィンストン子爵家が破産しないか。でも……」
アンナは窓の外を見た。遠くに見える水路の水が、月明かりを受けて光っていた。
「領民を救うためには、この方法しかなかった。やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがいいのです」
父は静かにうなずいた。
「シュルツ伯爵は、とんでもない人材を手放したな」
父の呟きを、アンナは聞こえないふりをした。
春の計画、夏の補修工事、新しい水車の設計。最悪の事態を脱したものの、やるべきことは尽きない。しかし、雑務の多さは、アンナにとって重荷ではなかった。
「楽しそうだな?」
父に指摘され、アンナはゆるんでいた口元を引き締めた。
シュルツ伯爵家で覚えた諦めの感情はなかった。父に感謝してもらえた。領民に感謝してもらえた。
それだけで十分だった。
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