第10話「渇いた玉座と、崩れ落ちる虚栄の冠」
王都の空気は、ひどく淀んでいた。
サイラスの空間転移の魔法を抜け、王城の正門前に降り立った瞬間、肌を刺したのはひび割れた大地を撫でる熱風だった。
かつて清らかな水路が巡らされ、四季折々の花が咲き誇っていたはずの白亜の城壁は、見る影もなく薄汚れている。
石畳の隙間から顔を出していた草花すらも枯れ果て、灰色の粉となって風に舞っていた。
沿道にうずくまる衛兵たちの頬は酷くこけ、虚ろな瞳が泥にまみれた地面をただ見つめている。
乾ききった土の匂いと、行き場のない絶望の重さが、空気をどろりと濁らせていた。
これが、僕が追放されてからわずか数ヶ月の間にこの国に起きた現実だった。
隣を歩くサイラスが、不快そうに鼻先を歪める。
彼の高い鼻梁を抜ける冷たい息の音が、静寂に沈む城内に微かに響いた。
周囲に漂う病の気配と腐敗の匂いが、彼の研ぎ澄まされた感覚をひどく逆撫でしているのだ。
僕はそっと彼の手を取り、長い指の間に自分の指を絡ませた。
骨張った大きな手のひらから伝わる熱が、僕の血管をじんわりと温め、強張っていた肩の力を抜いていく。
彼が傍にいてくれるという事実だけで、かつて僕を苛んでいたこの場所の冷たさも、今は少しも恐ろしいとは感じなかった。
手のひら越しに彼の莫大な魔力の鼓動を感じながら、僕はゆっくりと前へ歩み出す。
「ひどい有様だな」
サイラスの低い声が、乾いた空気を震わせた。
彼の金緑石の瞳は、足元にすがるように手を伸ばしてくる者たちを一瞥することもなく、ただ前方の玉座の間だけを冷酷に見据えている。
「かつてお前を蔑み、追い出した国だ。滅びるべくして滅びるものを、わざわざ見届けに来る必要などあったのか」
「僕の過去に、僕自身の意志で線を引くためです」
僕は足を止めず、彼の手を握り返しながら前を向いた。
「誰かに追われたままではなく、僕がここを捨てるのだと、彼らに理解させるために」
僕の答えに、サイラスはわずかに顔をしかめ、しかし繋いだ手にはさらに強い力を込めてくれた。
玉座の間の重厚な樫の扉の前に立つと、サイラスは指先を軽く動かしただけだった。
何百キロもの重さがあるはずの鋼の装飾が施された扉が、見えない巨人の腕に弾き飛ばされたかのように、轟音を立てて内側へと吹き飛ぶ。
木片が宙を舞い、大理石の床に激突して耳障りな音を立てた。
舞い上がった土埃の向こう側に、恐怖に顔を引きつらせた貴族たちと、国王の姿があった。
広間の空気は、むせ返るような汗と脂の匂い、そして隠しきれない死の気配に満ちている。
かつて僕を嘲笑い、リアを聖女と崇めた者たちが、今は震える身を寄せ合いながらこちらを見ていた。
誰も言葉を発することができない静寂の中、僕の足音だけが大理石の床に響き渡る。
サイラスは僕の斜め後ろに立ち、玉座の間全体を包み込むような凶悪な魔力を静かに放散させている。
空気が凍りつき、呼吸をすることすら困難なほどの圧迫感が、広間を隙間なく埋め尽くしていた。
シャンデリアの揺れる音が、異様に大きく聞こえる。
「アイゼン……戻って、きてくれたのか」
玉座に座る国王が、かすれた声で絞り出すように言った。
その目は、暗闇の中で一筋の光を見つけたような、救世主を見る卑屈な色を帯びている。
僕は広間の中央で立ち止まり、冷え切った視線でかつての主君を見据えた。
そこに敬意や忠誠心は、もう一滴も残っていない。
「戻ってきたわけではありません。僕はただ、この国との繋がりを完全に断ち切るためにここへ来たのです」
「待ってくれ。頼む、あの時の事はすべて謝罪する。我が国には、お前のその力が必要なのだ」
国王が玉座から転げ落ちるようにして立ち上がり、僕に向かってしわがれた手を伸ばす。
その時、広間の奥の扉が激しい音を立てて開け放たれた。
息を切らし、泥まみれの衣服を引きずりながら現れたのは、ユリウスとリアだった。
彼らはサイラスによって森の彼方へ吹き飛ばした後、やっとのことで王城まで辿り着いたのだろう。
ユリウスの美しい金髪は土埃に塗れ、リアの純白のドレスは無残に引き裂かれていた。
「アイゼン。お前、よくも私を……」
リアが金切り声を上げながら、狂ったように僕の元へ駆け寄ろうとする。
その手には、どこで拾ったのか、赤く錆びた短剣が握られていた。
嫉妬と憎悪で醜く歪んだ顔は、涙と泥でぐしゃぐしゃになっている。
かつて可憐な妹として振る舞っていた彼女の面影は、もはやどこにもなかった。
だが、彼女の刃が僕に届くことはない。
サイラスが冷酷な目でリアを睨みつけた瞬間、彼女の体は見えない壁に激突したかのように宙に跳ね上げられ、大理石の太い柱に叩きつけられた。
鈍い音が響き、リアが肺の空気を吐き出して床に崩れ落ちる。
彼女の口からくぐもった呻き声が漏れ、短剣が床を滑って不快な金属音を立てた。
「僕の番に刃を向けるとは、随分と安い命だ」
サイラスの指先に、チリチリと空気を焦がす熱が集束していく。
広間の温度が急激に跳ね上がり、貴族たちが悲鳴を上げて壁際へと逃げ惑う。
僕は静かにサイラスの手首を掴み、その熱を散らすように自分の魔力を流し込んだ。
僕の透明な魔力が彼の金緑色の熱に絡みつき、暴発寸前だった力を静かな波紋へと変えていく。
「師匠、大丈夫です。彼女の刃など、今の僕には絶対に届きませんから」
僕が振り返って見下ろすと、リアは口の端から血を流しながら、それでも憎悪の炎を燃やして僕を睨みつけていた。
「お兄様さえいなければ……私が、本物の聖女になれたのに……」
「君は初めから何も持っていなかった。他人の熱を自分のものだと錯覚し、それに寄りかかっていただけだ」
僕は淡々と事実を口にする。
怒りも悲しみもなく、ただそこにある真実を突きつけるだけだった。
ユリウスが這いずるようにして僕の足元にすがりつき、泥だらけの手で僕の靴を掴もうと腕を伸ばす。
「アイゼン、悪かった。僕が愚かだった。君を正妃として迎える、だからどうか、この国を救ってくれ」
かつて僕がすべてを懸けて愛そうとした男の、あまりにも惨めで下品な姿。
喉の奥から、乾いた笑いがこみ上げてきそうになるのを必死に堪える。
胸の奥で、何かが完全に冷えて固まる音がした。
僕を縛っていた鎖は、もう跡形もなく消え去っている。
僕は静かに息を吸い込み、自分の中に眠る特異な魔力の回路を全開にした。
今日ここで、僕の過去のすべてを清算する。
それが、僕を信じてくれるただ一人の人への、僕なりの誠意だった。




