第9話「灰色の鎖を断つ決意と、二人で踏み出す外の世界」
「なぜ止める。こいつらがお前をどれほど虐げ、尊厳を踏みにじってきたか、忘れたとは言わせない」
サイラスの低い声が、喉の奥で唸る獣のように響く。
彼の手のひらに収束した熱線は今にも暴発しそうで、周囲の空気を歪ませ続けている。
僕は彼の手を強く握りしめ、僕自身の透明な魔力を注ぎ込んだ。
暴れ狂う彼の力を中和し、静かな水面のように落ち着かせていく。
「忘れていません。彼らが僕にしたことも、浴びせられた言葉も、すべて覚えています」
「ならば、消し去ってやるのが道理だ」
「それでは、彼らと同じになってしまう」
僕の言葉に、サイラスの瞳孔がわずかに開いた。
僕は彼の手を両手で包み込んだまま、ゆっくりと首を横に振る。
「彼らをここで焼き殺すのは簡単です。でも、それでは僕の過去は、ただの惨めな被害者のまま終わってしまう。僕は、彼らのためにあなたの手を汚させたくないんです」
サイラスから放たれていた致死の熱が、少しずつ温度を下げていく。
僕はユリウスとリアの方へ向き直った。
地面に這いつくばり、恐怖で震えているかつての婚約者と妹。
あれほど僕を見下し、僕のすべてを奪ったと高笑いしていた彼らの姿は、今や哀れなほどに小さく見えた。
「僕は、王都へ行きます」
僕の宣言に、ユリウスが顔を上げ、すがりつくような視線を向けてくる。
「本当か、アイゼン。戻ってきてくれるのか」
「勘違いしないでください。あなたたちのために戻るわけではありません。ただ、僕自身を縛り付けていた過去に、きちんと終止符を打つためです」
僕は静かな声で告げた。
かつての僕は、彼らに認められることだけを望んでいた。
魔力を持たない無能として生きるしかなく、王太子との婚約という細い糸だけを頼りに生きてきた。
だが、今の僕は違う。
僕の中には、この世界を癒し、変革することさえ可能な強大な力が眠っている。
そして何より、僕の傍には、どんな時でも僕の味方でいてくれる世界最強の魔法使いがいる。
もう何も恐れるものはない。
「アイゼン」
サイラスが背後から僕の肩を抱き寄せた。
その腕の力強さが、僕の背筋に熱を通す。
「お前がそう決めたのなら、止めはしない。だが、僕も行く」
「師匠は、王都の人混みは嫌いでしょう?」
「お前を一人で虫籠の中に放り込むような真似ができるか。僕はお前の影だ。お前に害をなす者がいれば、その時は容赦なく刈り取る」
彼の言葉に、僕は小さく微笑んだ。
どこまでも過保護で、独占欲の塊のような人。
でも、それが僕にはどうしようもなく心地よかった。
「わかりました。一緒に行きましょう」
僕たちはユリウスたちを一瞥することもなく、塔の中へ戻るために背を向けた。
「待ってくれ、すぐに王城へ向けて出発を……」
ユリウスが這いずるようにして手を伸ばしてくるが、サイラスが指を一度鳴らすと、彼らの乗ってきた馬車と馬が瞬時に空高く吹き飛ばされ、森の彼方へと消え去った。
「歩いて帰れ。僕たちは僕たちのやり方で行く」
サイラスの冷酷な言葉に、ユリウスとリアは絶望の表情を浮かべたまま石畳の上に崩れ落ちた。
塔に戻った僕たちは、旅の準備を始めた。
とは言っても、サイラスの空間収納の魔法があれば荷物など持つ必要はない。
僕は窓際で枯れかけていた鉢植えの土に触れ、微かな魔力を流し込んだ。
僕がこの塔に来てから、灰色の沈殿物のように枯れ果てていた植物たちは、僕の魔力に触れることで少しずつ本来の姿を取り戻しつつあった。
指先から流れ込む透明な力が、土を伝って根に届く。
乾いた音が響き、硬く閉じていた蕾が鮮やかな青い花弁を広げた。
「綺麗な色だ」
背後から近づいてきたサイラスが、僕の髪に唇を落とす。
「この花のように、お前の力は周囲を変えていく。王都の景色も、お前が望めば一瞬で変わるだろう」
「僕はただ、自分の足で立ちたいだけです。誰かに与えられる場所ではなく、自分で選んだ場所で生きるために」
僕は振り返り、サイラスの首に腕を回した。
彼が少し驚いたように目を細める。
「そして、すべてが終わったら……この塔に帰ってきます。二人で」
「ああ。必ず連れて帰る。お前の居場所は、僕の腕の中だけだ」
骨張った手が僕の腰を引き寄せ、彼の熱い唇が僕の口の端に触れた。
オゾンの匂いとラベンダーの香りが混ざり合い、僕の胸の奥で甘い痺れが広がる。
それは誓いの口づけには少し足りない、しかし何よりも確かな約束の形だった。
僕たちは互いの体温を確かめ合うように深く抱きしめ合い、そして、静かに塔の扉を開いた。
灰色の鎖を完全に断ち切るための、短い旅の始まりだった。




