第8話 監査官の靴音
受付に立つ女の靴は、泥ひとつついていなかった。
「王立医療局から来ました。リディアです。まず、こちらで診ている竜が何頭いるか教えてください」
彼女は挨拶を済ませると、壁の時計を見て帳面を開いた。小さな革鞄から取り出す紙は、角まできちんと揃っている。
「直近の申し送りでは、世話をした竜が六頭。治癒息の治療に参加している竜は四頭。残る二頭は?」
「一頭は診察を受けに来ました。もう一頭は、仕事に出ているわけじゃありません」
「では、もう一頭は何をしに来ているんですか」
「もう一頭は、ほら」
マリエッタが窓を指した。アルトが窓枠へ顎を載せている。
「焼き梨です」
リディアのペンが止まった。
「食事も管理している竜ですか」
「さあ。本人は業務だと思っているかもしれません」
レナートが堪え切れず笑うと、リディアはこちらへ視線を移した。
「レナート先生ですね。治療を受けた竜と、休みに来た竜は別々に数えてください。そこが一緒だと、あとで困ります」
その声に怒りはなかった。単に、必要なことを必要な順番で聞いているのだ。
監査期間は二十一日。現地の診療状況、治癒息の使用量、竜の回復状態、患者への影響を確認する。リディアはその条件を読み上げたあと、ノエの様子を見たいと言った。
ノエは安静を続けている。診察台へ乗ると、まず裏庭のアルトを確かめた。リディアはそれを不思議そうに眺めたが、レナートから説明を受けると、観察票に小さく書き込んだ。
「診察に必要な環境の調整、と」
「そこまで記録するんですか」
「次の担当者が同じ条件を作れるなら、価値があります」
レナートは、思わず彼女の顔を見た。王都の監査官と聞いて身構えていたが、数字しか見ない人ではないらしい。
午前中、リディアは診療所の廊下を一巡した。
竜が通れる扉の高さ、休息場所の床材、診療器具を運ぶ距離。手帳の頁は次々埋まっていく。
「ここは、治癒息を使った竜をすぐ休ませられるのがいいですね」
レナートは意外に思って立ち止まった。
「設備の古さを指摘されるかと」
「古いこと自体は問題ではありません。危険な場所なら指摘します。でも、いいところを見落とすと、別の施設が真似できません」
彼女は休息室の窓を開け、周辺の風を確かめた。水路の近くは気温が変わりやすい。晴れの日と雨の日では、別の問題が出るかもしれない。リディアはその場で結論を出さず、観察の時刻を増やした。
窓の留め金は、古い布を巻かなければ途中で止まらなかった。リディアがそこを指摘しようとすると、テオが何も言わず布を結び直す。
「風が強い日は、この角度にしてるんですか」
「そうだ。広く開けりゃいいってもんじゃない。寝てる竜の首にまともに当たる」
リディアは窓枠の寸法より先に、布を結ぶ位置を手帳へ描いた。書類にはないが、毎朝ちゃんと繰り返されている仕事だった。
診療所で働く世話係が、彼女の細かな質問に少し緊張していた。リディアはその様子に気づくと、持っていた手帳を閉じた。
「間違いを探すだけではありません。これまでうまくいっていることも教えてください」
世話係は少し考え、ノエがアルトの姿を見られる位置にいれば診察を受けやすいことを話した。
リディアはその情報を記した。
「私は、報告書だけではそのことを知りませんでした」
レナートは、最初にリディアが尋ねた「六頭」のことを思い出した。世話をしている竜と、治癒息に協力した竜を一緒に数えれば、引退したアルトまで治療の担当に入ってしまう。
窓の向こうではアルトが大きな口を開けてあくびをしている。リディアはそれを横目で見たが、笑わなかった。
「焼き梨の件も、観察として残したほうがいいでしょうか」
聞き返したマリエッタが、とうとう吹き出した。
午後、リディアは個別治療票の保管場所を確認した。マリエッタは棚を案内したものの、途中で受付へ呼び戻される。待っている患者がいたからだ。
「もう少し、案内をお願いできますか」
「患者さんが先です。書棚なら先生にも案内してもらえます」
「その判断については同意します」
二人は互いに譲らず、しかし仕事は滞らなかった。
レナートが案内した棚には、患者ごとのカルテと、治癒息を使った際の個別治療票、竜の回復確認票が別々に収められていた。リディアは前日の個別治療票を一枚選び、対応番号の回復確認票を探した。
「この竜の、治療が終わった時刻は?」
「昨日の昼前です。終わってすぐ休息室に移しています」
レナートは二枚の票を並べた。個別治療票には治療終了の時刻、回復確認票には休息室へ入った時刻が記されている。ところが回復確認票の世話係の署名には別の時刻が添えられており、何を確認した時刻なのか分からなかった。
「時刻が少し離れていますね」
「そうでしょうか。十分ほどですよ」
リディアは責めるでもなく、休息室にいたテオを呼んだ。テオは昨日の見回りを思い返し、先に竜を横たえさせ、そのあと水桶を片づけてから票へ署名したと話した。
「じゃあ、休息室へ入れた時刻と、俺が確認を終えた時刻が別々に残ってたわけだ」
「そう書かれていれば、昨日いなかった人にも分かります」
リディアは二つの時刻を囲み、回復確認票の余白にそれぞれ何の時刻かを明記するよう頼んだ。どちらかの時刻が嘘だったわけではない。何の時刻なのか分からない書き方が問題だったのだ。
「書く場所が一つしかないんですよ」
テオの声には不満が混じっていた。
「現場で片づけながら、一枚ずつ紙を埋めるのは大変です。竜が落ち着いているか見るほうが先になる」
「その順番は変えなくて結構です」
リディアは票を棚へ戻した。
「記録を増やす前に、何を別々に書くべきか見ておきます。現場を見ないで欄だけ増やしても、埋まりませんから」
テオは、棚に戻された票を見ていた。レナートも、記録が足りなければ新しい用紙を求められると思っていた。
廊下の向こうでマリエッタが患者を案内する声がした。リディアはその声を聞き、午前の巡回表の裏に小さな印をつけた。
「受付の方にも、あとで確認させてください。忙しい時間帯が分からないと、無理な手順を作ってしまいます」
レナートは棚の扉を閉めた。話す時間を取れば患者が待つ。それでも世話係の仕事を知らなければ、今ある票さえ扱いづらいままだ。
午後の監査では、リディアがノエの診療経過について細かく尋ねた。レナートは赴任初日の翼の傷と、数日前の呼吸障害を一つの原因で説明してよいのか迷っていると話した。
「翼の装具が直接呼吸障害を起こしたと、証拠があるわけではないんですね」
「ええ。今のところは別の問題として扱っています」
「それがよいと思います。関連が見つかれば、その時点で考え直せばいい」
リディアはレナートに理由を問い詰める代わりに、未記入の欄へ小さな印を付けた。「ここは、次の診察が済んでから」
診療所の奥には小さな休息室があり、世話係の交代時刻が手書きで貼られていた。リディアはそこへ立ち止まり、誰が夜間に見守るかを確認する。
「竜の記録だけじゃなく、人の休息も必要です」
マリエッタが言うと、リディアは頷いた。
「継続できない方法は、安全な方法とは言えません」
二人の意見が珍しく一致したので、レナートは思わず笑った。
「何です」
同時に問い返され、彼は慌てて顔を戻した。
「いえ。明日から忙しくなりそうですね」
監査の合間、マリエッタは受付の空いた時間に、世話係が記録をつけにくい時間帯を伝えた。朝は最初の患者が来る前。昼は休息場所の水を替えるとき。夕方は、竜を家へ連れて帰る人々を見送るころ。記録をつけるのが難しい時間でも、竜の様子を見なくてよいわけではない。
「書き方を決めるのは簡単です。でも、書くのはここの人たちです」
「分かっています」
「でしたら、あとで実際に試してみてください。私が口で説明するのと、先生たちが手を動かすのでは、たぶん違いますから」
リディアは少し笑い、手帳の予定を一行ずらした。監査官が受付の繁忙時間を避けて見回ることになると知り、マリエッタはようやく彼女へお茶を勧めた。
夕方、監査条件の確認書が出来上がる。レナートは治癒息を使う回数だけでなく、使えない日に待つ人の負担も調査対象に入れるよう求めた。
「記録の負担は増えますが」
リディアは言った。
「竜の安全のために治療を減らしたなら、その結果として人間の患者がどうなったかも残すべきです。片方だけ良く見える報告では、次の判断に使えません」
レナートは頷き、確認書へ署名した。
マリエッタが見守る机の上には、明日の予約票があった。手に怪我をした職人の名が記されている。
「明日の患者さん、ずっと治癒息を待っているんですよ」
リディアは予約票を確かめた。
「では、その方にも事情を聞かせてください」
マリエッタは職人の予約票を、資料の一番上へ移した。




