第9話 待合室の朝
細工職人の指には、仕事の跡が残っていた。
細かな金属片が入り込んだ爪の縁、何度も刃物を持ったせいで厚くなった皮膚。今は包帯の下に深い傷があり、曲げるたびに痛みが走るという。
「来月までに細工箱を二十個仕上げなきゃならない。これ以上治療が延びたら、仕事そのものがなくなる」
職人は待合室の椅子で包帯を押さえた。四十代に見える、目の鋭い男だった。レナートは人間側の医師エーヴァとともに診療計画を確認した。
通常の処置によって傷の回復は期待できる。しかし、精密な作業へ復帰するには時間を要する。治癒息がその回復を助ける可能性はあるものの、手指の動きまで元どおりになる保証はない。
「竜は四頭いるんでしょう。誰かにやってもらえばいいじゃないか」
職人の声が硬くなる。
「その四頭も、次の治療へ戻れる状態かを確かめる必要があります」
「病院は傷を治すところじゃないんですか」
「そうです。だから、できない治療を約束するわけにはいきません」
答えたあと、レナートは何かが足りないと感じた。説明として間違ってはいない。しかし相手の表情は変わらない。
エーヴァが椅子を寄せた。
「今日できる処置は続けます。その手を使わずに済むよう、仕事を分担できませんか」
「俺の仕事を、あんたが決めるのか」
「いいえ。ただ、今のまま無理をして傷が広がれば、もっと長く休まなければならないかもしれません」
職人はようやく目を伏せた。
「手伝いはいる。だが細かい蓋の合わせだけは、俺しかできない」
「その合わせ方を、少し見せてもらえますか」
レナートが尋ねると、職人は包帯のない左手で荷袋を開き、木の蓋を取り出した。親指の腹ほどの金具が二枚、縁へ埋め込まれている。
蓋を閉じる寸前、職人の指が癖で動いた。負傷したほうの手だった。
「触らないでください」
エーヴァの声に、男は止まった。蓋は机の角へ当たり、かすかな音を立てて開いた。
「……こういう音がしたら駄目なんだ。金具がほんの少しずれてる」
「今はその手を使わないで。合わせ具合を試すのは、傷が落ち着いてからです」
「客には事情なんか関係ない。閉まる箱が欲しいだけだ」
職人は左手だけで蓋を立て、耳元へ寄せた。閉めるたびに金具が小さく鳴る。
「ここが鳴ったら、客は何も言わずに返してくる。俺だって他人の仕事ならそうする」
「弟子には、その音の違いを教えているんですか」とレナートが聞いた。
「教えたって、手で覚えるしかない」
そう言いながら男は蓋を弟子のほうへ向けかけたが、今日は一人で来ていた。行き場のない手が止まる。木箱を置いた音は、さっきの金具よりずっと大きかった。
エーヴァが蓋を一度置くよう頼むと、職人はしぶしぶ従った。きちんと閉じられない蓋を、診察室へ持ち込んだのには理由があるのだ。指が動けば、すぐにでも元の仕事へ戻れると確かめたかったのだろう。
レナートは診療台の端に残った木の粉を見た。治療を延期する理由ばかり考えて、納期が迫る二十個の箱のことを見落としていた。
エーヴァは傷を守るための処置を整え、作業を避けるべき期間と再診日を説明した。レナートは次に治癒息を検討できる時期を、安全確認の条件付きで伝えた。
それでも職人は不満そうだった。
「いつなら治療できるか分からないってことだな」
「今はそうとしか言えません」
「なら最初からそう言ってくれ」
診察中、職人は一度だけ荷袋の中身を見せた。細工箱の蓋を組み立てるための、指先ほどの金具がいくつも入っていた。
「これを合わせると、蓋が音もなく閉まる。少しでも狂ったら客は分かるんだ」
傷ついた手で触るなと止められ、男は不満そうに金具を袋へ戻した。
「使いの子が見よう見まねで作ると、どうしても角が合わない。俺がいなきゃ、最後のところで失敗する」
エーヴァは包帯を巻き直しながら話を聞いた。
「その子には、角の合わせ方を教えられませんか」
「教えたって、今日明日で覚えることじゃない」
「今日明日では無理でも、数週間後には違うかもしれませんよ」
職人は黙った。弟子のことを考えているように見えたが、すぐには言葉が出てこない。
レナートは竜の診療で似たことを思い出した。アルトに仕事を任せきりだった時代、若い竜がやり方を覚えるまで何度も失敗したのだとテオが話していた。親方一人で仕事を抱え込んでいては、弟子が覚える機会もない。
「治癒息で治療できれば、手の回復が早まるかもしれません。でも、元の仕事へ復帰できるかは、別に見なければなりません」
職人はため息をついた。
「分かってる。でも、遅れると困るんだ。客は半年も待ってくれない」
その声には怒りより疲れがあった。レナートは安全の説明を繰り返すのをやめ、まず相手がいつまでに何を仕上げたいのかを尋ねた。
職人は少しだけ驚いた顔をしたが、約束した納期を話し始めた。
診察室の戸が閉まる。レナートは机の上の予約票を見た。
「うまく伝えられませんでした」
「伝わらなかっただけとは限らないわ」
エーヴァは使った器具を片づけながら言った。
「どうすれば安全か説明するのも仕事。でも、説明されたら困らなくなるわけじゃない。あの人は今夜も、仕上げられない箱を前にして悩むのよ」
窓の外ではノエが敷物の上に伏せていた。治癒息を休んでいる若い竜のそばで、アルトが眠そうにしている。
誰かを休ませることにも代償がある。
リディアはその日の記録へ、竜の治療を見送った理由だけでなく、職人が仕事の期限を抱えていることも書き込んだ。
「こういう記録まで必要ですか」
「延期の影響を調べると言ったでしょう」
「仕事の箱の数まで?」
「箱の数そのものより、治療を待つことで暮らしや仕事に何が起きるかです」
レナートはその言葉を聞き、午後の予約表へ目を落とした。
昨日の監査で、自分が追加を求めた項目だった。
診療所の閉まる少し前、若い男が扉を叩いた。細工職人の弟子だという。師匠が治癒息の治療を受けられなかったと聞き、不安になって来たらしい。
「親方は、手が動かないと何もできなくなると思ってます。でも俺も少しは仕事ができます。どうしたらいいのか分からなくて」
レナートは人間側の診断を代わりにすることはできないと伝え、エーヴァへ相談するよう勧めた。彼女が戻る時刻を確認し、弟子の話を聞く席を用意する。
「親方に、俺にできる仕事を任せてほしいって、なかなか言えないんです」
「そうでしょうね」
レナートも王都で、仕事の役割をめぐって人と衝突した記憶がある。安全について正しいことを言うだけでは、誰かの誇りを傷つけることがある。
「俺から師匠へ言えることは限られます。でも、あなたが何ならできるか、先に書き出してみませんか」
弟子は少し考え、手帳を取り出した。組み立てはできる。金具を磨ける。納品先へ届けることもできる。最後の寸法合わせだけが難しい。
「前に一度、親方が途中まで作った箱を俺が閉じたんです。角が合わなくて、やり直しになりました」
「そこで、どこが合わなかったか聞けましたか」
「聞く前に、親方が全部直しちまったんです。怒鳴られたわけじゃないけど……俺も、その場を離れたほうが早かった」
レナートは返す言葉を探した。急ぎの仕事なら、自分で直したほうが早い。王都でもそうだった。忙しい相手に教える時間を頼むのは、なかなか勇気がいる。
「今夜、あなたが作った箱を見せたら、また直してしまうかもしれないですね」
「でしょうね」
「なら、完成品を頼むんじゃなくて、一箇所だけ見てもらうのはどうでしょう。どこで音が出るのか、あなたが分かるまで」
若者はしばらく考え込んだ。
「……嫌がられるかもしれない」
「それはあります」
「先生、そこは大丈夫だって言ってくださいよ」
「言ったら嘘になりますから」
弟子はきょとんとしたあと、初めて声を立てて笑った。レナートはその笑いに救われながら、職人本人の診療内容は勝手に話さないと付け加えた。弟子に必要なのは、師匠の傷の説明ではなく、仕事について話す機会なのだ。
「それなら、全部が止まるわけじゃないですね」
レナートが言うと、若者はようやく小さく笑った。
職人本人は、明日この話を聞いて怒るかもしれない。だが、話し合う材料があるだけでも違う。レナートはエーヴァへの伝言を残した。
弟子が帰る前、彼は持ってきた細工箱を一つだけレナートへ見せた。蓋が最後の指一本のところで止まり、押せば耳に残る小さな音がする。
「親方は、この音で失敗だって分かるんです。俺は、どこが違うのかも分かりません」
「音が出るところを見ていいかな」
二人で蓋をゆっくり閉じてみると、左の金具が先に当たっていた。レナートには原因までは分からないが、弟子が自分で気づけるよう、手を添えずに見せた。
「こっちが先に当たるのか」
弟子は木片を持ち替えた。右の金具へ細い紙を差し込み、何度か閉じる。音の位置が変わると、顔を明るくした。
「分かった、とはまだ言えないです。でも、親方にどこを直すか聞けます」
「その箱、明日も持ってくる?」
「はい。勝手に直して怒られるより、聞いてからにします」
レナートは笑った。自分には直せない箱だ。けれど、診療所へ来たときに弟子が握りしめていた手は、今は木片を支えていた。
窓から裏庭を見ると、ノエがアルトの横で羽をたたんでいた。
日が傾くころ、エーヴァが受付へ戻った。弟子の申し出を伝えると、彼女は職人が自分で判断できるよう、次の診察で確認することにした。
「仕事を分けるかどうかは、患者さんが決めること。でも、選べるようにするのは悪くないわ」
「俺は治療の延期を伝えただけです。結局あの人の手は、今日も痛いままで」
「それを忘れなければいいの。明日になったら都合よく治ったことにはならないんだから」
レナートは予約票の端へ、職人の名前の下に小さく再診予定を書いた。竜が治療へ戻れる日付を約束したものではない。手を診る医師と、仕事の相談をする機会を途切れさせないための予定だった。
夕暮れ、細工職人が通りの向こうを歩いていくのが見えた。包帯を巻いた手を胸元へ引き寄せ、空いたほうの手で重い荷を運んでいた。
窓を開けると、通りの角で男の荷が傾いた。レナートが声をかける前に、工房の若い弟子が駆け寄り、重いほうを引き受けた。職人は礼も言わずに歩き出したが、荷を取り返そうとはしなかった。




