第10話 雨の往診
雨になると元気になる竜がいるらしい。
最初にそう聞いたとき、レナートは湿った空気が呼吸を楽にしているのではないかと考えた。しかし世話係によれば、室内で水を張って湿度を上げても、症状はあまり変わらないという。
「雨なら外へ出たがるんです。晴れると、ここから動かない」
竜が暮らすのは、水路の脇にある石造りの倉庫だった。晴天の今日は、灰色の竜が入り口に顎を載せ、苦しそうに鼻を鳴らしている。
レナートは呼吸を観察し、周辺を調べた。石壁は乾き、寝藁に異常はない。水桶も清潔に保たれている。
「空気の流れが違うのかもしれませんね」
同行したグレンが言った。水路職人の男で、腕まくりした前腕には古い切り傷がいくつもある。
「雨の日は風向きが変わる?」
「変わる日もありますが、それだけじゃない」
彼は倉庫の外へ出て、上流の作業場を指さした。乾いた石粉を運ぶ荷車が往復し、橋の下に白っぽい跡を残している。
「晴れた日はあそこの粉が舞うんです。雨だと土へ落ちる。ここの風穴は、ちょうど粉を集める向きだ」
レナートが窓際へ行くと、細かな粉が木枠へ積もっていた。指でなぞれば白い筋が残る。
症状が雨と関係することは確かでも、湿度が唯一の原因とは限らない。粉じんの吸入が影響しているなら、雨天には粉が舞いにくくなる。
「竜を一時的に別の部屋へ移せますか」
「空いた倉庫があります。風穴は反対向きだ」
移動の負担を確認し、世話係が竜をゆっくり誘導した。しばらくすると、呼吸の荒さが落ち着き始める。レナートは時間を置いて再診し、環境と症状の経過を記録した。
「ここで楽になっても、原因が全部この粉だとは限りません。ほかの病気がないかも診ます」
グレンは当然だというように頷いた。
「水路も一緒ですよ。水が濁ったら、上流から全部見て回る。最初に思いついた場所だけ直しても、また濁る」
グレンが運搬の作業場へ案内してくれた。川沿いには乾燥した石粉を扱う人々がいて、粉は水路の護岸を補修するための材料にも使われている。作業そのものを止めれば、今度は別の問題が生じる。
「粉を使うのが悪いんじゃないんです。運ぶときに舞い上がったものが、たまたま竜の倉庫へ入ってしまう」
グレンは土の表面を指さした。そこには乾いた白い筋が残る。風が強まるたびに粉の一部が舞い、橋のたもとへ流れていった。
レナートは倉庫の窓の高さを改めて測った。人間の顔のあたりには流れ込まないのに、竜の首が伸びる位置では直接吹き込む。自分の身体の寸法だけで建物を見ていたら気づかなかっただろう。
グレンが木の棒を二本用意すると、世話係が濡れた布を持ってきた。
「こっちだけ拭き取って、午後にもう一度見てみます」
「両方拭かないと比べられないだろ」とグレンが言いかけたが、レナートが笑った。
「まず両方きれいにしましょう。置き場所は動かさずに」
世話係は頬を赤くして布を持ち替えた。医師も水路職人も、竜のことばかり見ていて、実際に窓を掃除する人の手順までは考えていなかった。
試しに、グレンは拭き終えた二本の棒を窓辺に置いた。一方には荷車の道側から来た風が当たり、白い粉がすぐに付いた。もう一方は壁の陰で、ほとんど汚れない。
「雨を降らせる道具がなくても、何が飛んでくるかは見られるな」
「症状の出方も、場所によって違いました。まだ原因を一つには絞れませんが、少なくとも粉が入る経路は確かめられます」
レナートが言うと、世話係は昨日拭いたばかりの窓枠を指でなぞった。指先が白くなり、唇を噛む。
「掃除はしてたんです。毎日。なのに、またすぐ溜まって」
「掃除が足りなかったわけじゃありません」
グレンは風上の荷車へ顎を向けた。
「ここで拭く人と、向こうで荷を運ぶ人が、互いに何をしてるか知らなかった。それだけのこともあるさ」
世話係は、粉のたまりやすい位置を覚えておくと言った。レナートは竜の呼吸を再度観察した。移動後は落ち着いている。ただ、落ち着いたことと治ったことを同じにはできない。今後の経過を見て、粉じん以外の要因も調べる必要がある。
仕事場の親方は、粉を運ぶときに布を掛ける提案へ最初は難色を示した。
「雨が染みたら材料が駄目になる。布は乾いたのを用意しなきゃならん」
「その布を、どこに置いておけます?」
ロレンツォの配達所なら、材料を使わない時間だけ保管できるという。グレンが提案すると、親方はようやく頷いた。
「竜のせいで仕事が増えるなあ」
「人間の荷車のせいで竜も困ってる。お互いさまでしょう」
グレンの言い方はぶっきらぼうだったが、親方も怒らなかった。
恒久的に風穴を変えるには、石壁を補強しなければならない。まずは竜を粉じんの入りにくい倉庫で休ませ、工事と診察の予定を別々に決めることになった。改善の直後に症状が軽くなっても、ほかの原因がないか確認し続ける必要がある。レナートは治療結果だけでなく、どの環境を変えたかを記録した。
午後、粉の運搬を担当する職人と話し合い、荷を覆い、風の強い時間帯に粉を舞わせない手順を決めた。倉庫の換気口にも工夫が必要だという。
「医者が来たら、橋を直せって言われるのかと思いましたよ」
職人が苦笑すると、グレンが肩をすくめた。
「橋は勝手に直さん。荷を濡らして大損するのも困るだろうしな」
レナートは二人のやり取りを眺め、医師だけでは答えを出せなかったと認めた。診察では呼吸の異常を知ることができても、街の風がどこから吹くかまでは分からない。
原因を考えるため、レナートは現場で二つの条件を比べた。朝の乾いた風が吹くころ、倉庫の窓には白い粉が積もる。前日の雨上がりに同じ窓を拭いた世話係は、昼過ぎまで粉がほとんど付かなかったと話している。
「雨が降ると、呼吸だけじゃなくて、竜の動きも変わるんですね」
レナートが言うと、グレンは首を横へ振った。
「竜の気分もあるかもしれない。だから、雨の日に元気になる理由をひとつに決めちゃいけない」
その言い方は、医師のレナートより慎重だった。
夕方になっても、竜をもとの場所へ戻すことはせず、新しい部屋で経過を見てもらうようにした。環境を変えて症状が軽くなることがあっても、その場では医学的な原因まで確定しない。
世話係は、移動させた竜が朝よりよく眠るようになったと話した。レナートは、その事実を観察の一つとして記録する。今後、同じ症状の竜を診るときに役に立つかもしれない。
荷を覆う布の置き場が決まると、親方は荷車の若い引き手を呼び、まず一台だけでやってみようと言った。すべての便を急に変えれば、補修用の石材が現場へ届かなくなる。グレンは午後の運行表を借り、風が強い時間帯を避けられる便に印をつけた。
「俺がつけた印に従って、荷が遅れたら?」
「次は印を変える」
グレンの答えに、親方は渋い顔をした。
「簡単に言うな」
「石橋が一本でも傷んだら、もっと困る。竜の身体も、橋も、試してから直すんだよ」
レナートは世話係に、今後の呼吸の観察と、以前の倉庫でまた粉が舞う時刻を分けて記録するよう頼んだ。二つの記録が同じ日の同じ時刻で重なるか、改修後も確かめられる。環境を直したという報告だけで、診療まで終わらせないためだった。
帰り際、グレンは水路で使った道具の泥を落としながら言った。
「医者が来ると、何でも一度で治してくれると思う人がいる。でも水路だって、一度水を流したら終わりじゃない」
「診療も同じですよ。治療したあとが長いんです」
グレンはレナートを見て、少し笑った。
「じゃあ、先生とは話が合いそうだ」
帰り道、雨が降り始めた。石橋の上に柔らかな音が広がり、水路の表面に小さな輪がいくつも生まれる。
グレンは濡れた手帳を守りながら、古い作業日誌の話をした。
「十七年前の災害のときも、竜を休ませるために水路を調整した。ああいう古い記録が、まだ役に立つとはな」
「記録、残ってるんですか?」
「何時にどこの水門を動かしたか、全部書くのが仕事だからな」
グレンは日誌の頁が雨で濡れないよう革表紙を閉じ、内ポケットへしまった。水門を動かした時刻だけは、あとで確かめられるという。
夕方、診療所に戻ると、朝の竜は新しい部屋で落ち着いているという知らせが届いた。レナートは検査を続ける条件と、環境を元に戻さないための手順をカルテへ記した。
雨が強まると、アルトは軒下へ潜り込んだ。ノエも遅れて隣に収まり、二頭が同時に身を縮めたせいで、狭い軒先から水が勢いよく跳ねた。




