第11話 うわさの行方
「竜の病気が、人間にも移るんですって?」
朝一番の患者にそう聞かれ、レナートは器具を落としかけた。
昨日までは、治癒息に協力した竜の呼吸障害について調査している、という話だったはずだ。それがいつの間にか、竜が人間へ病気を移しているという噂に変わっている。
「少なくとも、今調べている症例から、そういう事実は確認されていません」
「じゃあ絶対に大丈夫?」
「絶対とは言えません。ほかの病気の可能性もありますから。ただ、共鳴痕が人間の病気を竜へ移すものだ、という説明も支持されていません」
患者は不安そうに眉を寄せた。説明は慎重なはずなのに、安心させるには足りない。
噂は診療所の外にも影響していた。パン屋では、竜を裏庭に入れていることを気にする客が出たという。ロザンナは焼きたてのパンを運びながら、困った顔をした。
「具合の悪い竜をみんな集めてるんでしょう、と聞かれました。うちは休む場所を貸してただけです。怖がる気持ちまで馬鹿にできないけど、何でも一緒くたにされると困ります」
話している間にも、二人連れの客が店先で足を止めた。一人は焼き立ての丸パンを手に取ったが、裏庭の大きな敷物が見えると、元の籠へ戻した。
「裏には、まだ竜がいるんですか」
「今日はいませんよ。休息が必要な子を預かることはあります」
「病気の竜も?」
「ええ。医者に診てもらったうえで、休める子だけです」
客は代金を握ったまま黙った。連れの子どもがパンを欲しそうに見上げる。ロザンナはその子に笑いかけようとしたが、母親は袋を持ち直した。
「ごめんなさい。今日はやめておきます」
店の戸が閉まると、ロザンナは売り場の籠を奥へ運んだ。怒る代わりに、パンが冷める前にほかの注文へ回せるかを考えているらしい。
「気にしないでください、とは言いません」
彼女はレナートを見ずに言った。
「心配な人はいる。でも、私だって店があるんです。何を確かめたらいいか、ちゃんと聞ける場所がほしい」
レナートは彼女に謝った。診療所から出た説明が、違う形で広がった可能性があるからだ。
「先生が全部の噂を作ったわけじゃないでしょう。でも、医者が何も言わなければ、みんな勝手に答えを作りますよ」
ロザンナは小麦粉のついた手を拭いた。
「怖い話は早く広がるんです。パンの焼き上がりの知らせより、ずっと早い」
その日、マリエッタは診療所の掲示板へ短い説明文を出した。リディアが医学的な断定の表現を確認し、レナートが患者からよく聞かれた質問を加える。難しい言葉を一つずつ書き換える作業は、思いのほか時間がかかった。
最初の文には『現在、伝播の根拠を認めず』とあった。マリエッタがそれを読むなり、紙へ大きく線を引く。
「これ、町の人は意味が分かりませんよ」
「では、どんな言い方なら?」
「調べている病気が竜から人間へ移った事実は、今のところ見つかっていません、でいいでしょう」
リディアは少し考えて頷いた。
「そのほうが、調査中だということも伝わります」
書き直した紙を掲示板へ貼ると、通りかかった人が立ち止まって読んだ。安心した人もいれば、まだ首を傾げる人もいる。レナートは、たった一枚の紙ですべての不安を消せるとは思わなかった。
昼までに三人から同じことを聞かれた。ニネットはいつもの絵を持ってきたものの、受付でアルトへ近づいてよいか尋ねた。
「誰がそんなことを言ったんだろう」
レナートの問いに、マリエッタは街の方向を示した。
「調べるなら、順番に聞いてみましょうか。誰かが悪意で広めたとは限りませんよ」
最初に話を聞いたのは薬草店の主人だった。市場で『竜の鱗に人間の傷の形が出る』と聞き、病気が移ったのではと心配した。それを買い物客へ伝えた際、推測だと言い添えたつもりだったという。
次の相手は市場の仕立て屋だった。彼女は『感染の可能性があるらしい』と聞いた覚えがあり、子どもを診療所へ近づけないよう友人に話した。
「うちの子が去年、アルトに助けてもらったんです。だから余計に怖くて。もし、あのとき何か移っていたらと思うと」
仕立て屋は針山を握りしめたまま、視線を上げない。レナートは『大丈夫です』と言いたくなったが、根拠のない保証では目の前の不安を消せない。
「去年の治療が、今回の呼吸障害につながったという証拠はありません。人間へ移ったという報告も、今の調査にはありません」
「それでも、まだ調べてるんでしょう」
「はい。もし心配な症状があるなら、町医師が診ます。受診をためらう必要はありません」
仕立て屋はようやく顔を上げた。
「うちも、子ども連れの客に聞かれたんです」
仕立て屋は針箱の留め金をいじった。
「怖いって言ったのは私です。あの奥さんは、竜を悪く言ったわけじゃない。家に帰ってから、何を聞かれたのか考えて……」
「今から言い直しても、遅くはないと思います」とマリエッタ。
「そうかしら。店に来たら、まず謝ります。布の寸法を間違えたときも、そのほうが早いから」
仕立て屋は針箱を閉じた。誰が噂を始めたかより、次に客へ何を言うかを考え始めていた。
「……私は誰かを怖がらせたかったわけじゃないんです」
「分かります。できれば、今度は私たちが分かったところまで伝える手伝いをしてもらえませんか」
彼女はすぐには答えなかった。市場で毎日会う人に、『前に聞いたことは確かではなかった』と言い直すのも、簡単な仕事ではない。
言葉は、一人を渡るごとに少しずつ変わっていた。
「そもそも、誰が最初に傷の模様の話をしたんでしょう」
リディアが尋ねたとき、レナートはすぐには答えられなかった。先週、ニネットの古傷とアルトの共鳴痕について、彼も世話係に説明していた。医学的な言葉に慣れた者同士で話したつもりでも、外で聞いた人がどう理解したかまでは確かめていない。
「俺の話がきっかけになった可能性もあります」
リディアは一瞬だけ手を止めた。
「なら、どう訂正するか考えましょう」
診療所の前へ出ると、掲示の文字を読みきらないまま立ち去る人がいた。レナートは紙を読み上げるのをやめ、近くに残った男に尋ねた。「何が一番心配ですか」男はすぐには答えず、竜のいる通りを見た。
難しい専門用語を並べるより、質問に答えることのほうが時間がかかった。人々が怖がっていたのは、自分の家族の傷を治してもらえなくなることでもあった。
「竜が倒れたら、次は俺たちが困る。そういうことだろう」
細工職人が包帯の手を見せた。レナートは彼の顔を覚えていた。
「ええ。だから竜の安全を調べています」
「調べるのはいい。こっちの手が治るまでに、答えが出るといいけどな」
男は憎まれ口を残して去った。
午後の説明会が終わるころ、薬草店の主人が改めて訪れた。噂の出どころとして名を挙げられるのではないかと、不安になったらしい。
「私は、そんなつもりじゃありませんでした。傷の模様が移ったみたいだと聞いて、ただ心配で」
レナートは彼に椅子を勧めた。主人は薬草の匂いのする手袋を脱ぎ、膝の上に置いた。
「聞いたことと、確かめたことが違うのは分かります。でも、怖い話を聞くと、誰かに言わずにいられないんです」
リディアも隣へ座り、現時点で調べている内容を説明した。竜の鱗に現れる共鳴痕と、呼吸障害を分けて扱う必要があること。今のところ、共鳴痕そのものが人間の病気の伝染を示す根拠はないこと。
「じゃあ、店でもそのまま伝えていいですか」
「ええ。ただ、分かっていないところは分かっていないと伝えてください」
主人は頷いたあと、小さく笑った。
「それが一番難しいですね。みんな、はっきりした答えが好きだから」
レナートも笑えなかった。自分だって、曖昧なまま説明するのは苦手だったからだ。
主人が帰ったあと、マリエッタが掲示板を確かめ、文章の最後へ一行加えた。
『診療について心配なことは、受付へお尋ねください』
夕方、ニネットが壁に新しい絵を掛けた。アルトの隣には小さく、手当てを受ける人間も描かれている。少女は絵の前に立ち、通りかかった人へ何か説明していた。
「先生、見て。アルトは元気だよって書いた」
レナートは紙の下の文字を読んだ。元気、と書くには、老竜にも以前からの健康上の問題がある。
「今は落ち着いてる、にしようか」
「じゃあ、そうする」
少女は素直に文字を書き直した。
その日の終わり、ロザンナから短い伝言が届いた。昼にパンを買わずに帰った客が、夕方また店へ寄ったという。話を聞いただけで不安がなくなったわけではないが、子どもが欲しがっていた丸パンを二つ買っていったそうだ。
伝言の下には、ロザンナらしい太い字で「裏庭は予定どおり貸します。ただし煙突の点検は続けること」と書き添えられていた。
翌朝、別の病院から症例票が届いた。呼吸障害のある竜の鱗には、共鳴痕がまったく見られないという。
レナートはその紙を読み返した。共鳴痕を手がかりに考えてきたことを、どこから見直せばいいだろう。




