第12話 傷のない病
二頭の竜の記録は、正反対のことを示していた。
一頭には、古い人間の傷と似た共鳴痕がある。しかし呼吸は安定し、治療への復帰も医師の確認を経て順調に行っている。
もう一頭には模様がない。それなのに、治癒息を使ったあと、ひどい呼吸障害が現れた。
「共鳴痕が原因なら、こっちの竜も病気になるはずです」
レナートが指したのは、模様のある健康な竜の記録だった。
「二件だけで、関連が一切ないとは言えません」
リディアは正確に言った。
「ただ、模様があることだけで原因を説明できないのは確かです。ほかの症例も調べましょう」
診療所の机で考えるだけでは足りないと、レナートは川向こうの荷運び竜を訪ねた。以前、ニネットが『ほかにも模様のある竜がいる』と話した相手だった。
荷場では、褐色の大きな竜が水桶のそばで休んでいた。左肩の鱗に細長い白い線があり、運搬役の男はそれを見せるとき、竜へひと声かけてから身体を寄せた。
「もう何年もある。人の怪我を治したころに出たんだろうって、前の医者は言ってました」
「そのあいだ、呼吸が悪くなったことは?」
「去年の真夏に一度、ひどく暑がった。診てもらったら日差しの強い時間は運ばせるなって。あれから朝に荷をまとめてます」
竜はゆっくり鼻を鳴らし、桶の縁を押した。見せてもらえる範囲で呼吸を確認すると、休息中の胸の動きは安定していた。男は直近のカルテも持っており、治療に協力したあとには医師の確認を受けて休んでいたことが分かる。
荷運びの男は、白い模様へ触れる前に竜の顎の下を掻いた。竜は一度だけ肩を寄せ、それから気が済んだように水桶を押し出した。
「水が空だって言ってます?」
「もう半分も飲んだのに。あいつは水桶を運ぶほうが好きなんです」
男は笑って桶を戻した。竜は模様を見せることより、積み荷のない午前に水辺で過ごすことのほうに関心があるらしい。レナートは先ほどまで、白い線ばかり追っていた自分に気づいた。
「模様があるから大丈夫、とは言えないんですよね」
男が、竜の肩を撫でた。
「それも、まだ分かりません。今日診て言えるのは、今は落ち着いているということだけです。過去の模様と現在の病状の関係は、ほかの症例と比べる必要があります」
荷場の手前では、ロレンツォの若い配達員が道幅を測っていた。竜が無理なく通れる道を調べているらしい。こうしてほかの人が使う場所で、竜の身体を扱う仕事にも、観察と工夫が積み重なっているのだとレナートは思った。
診療所に戻り、彼らは治療の時期、呼吸異常が現れた時刻、休息場所、過去の病気を並べ直した。医療局に保管された別の症例についても照会を出す。模様があるのに呼吸が安定した竜と、模様がなくても症状が重い竜がいる。現時点の記録は、共鳴痕を病気の直接原因とする見方を支持していなかった。
アルトの白い模様を思い出していたレナートは、目の前の仮説を捨てた。
川向こうで診た竜の共鳴痕は、今朝の推測にきれいに当てはまらなかった。レナートはその症例に付けていた印を消し、新しい紙には何も書き足さなかった。
リディアは資料に新しい印を付けた。
「関連がないと証明できたわけではありません。でも、模様があるから病気だと決める理由は、もうありませんね」
「今はそうです」
レナートは自分の筆で書いた古いメモを見た。共鳴痕が呼吸障害の鍵かもしれない、とある。その推測を書いた時点では、確かな手がかりだと思っていた。
しかし医学の仕事は、自分が気に入った説明を守ることではない。説明できない症例が現れたなら、仮説を変える必要がある。
「先生、少し落ち込んでます?」
マリエッタが尋ねた。
「いいえ。むしろ、間違った方向へ進まずに済みました」
「それならよかった。せっかくの休憩時間ですから、熱いお茶でもどうぞ」
茶碗を受け取りながら、レナートはマリエッタに礼を言った。彼女は古い患者の記録を次々と運び、照合作業を手伝ってくれていた。誰がどの治療を受けたかを知るためには、受付での日々の積み重ねが欠かせない。
昼を少し過ぎたころ、ニネットが絵の続きを持ってきた。少女はアルトの翼の模様を見比べながら、何度も口を開きかけた。
「わたしの傷を治したせいで、アルトの身体が悪くなったの?」
レナートは、机の上に二枚の図を並べた。
「共鳴痕があるからって、病気だとは言えないんだ。治癒息を使った負担は別にあるけど、どんなときに重くなるのか、いま調べている」
少女はしばらく紙を見ていた。
「じゃあ、わたしのせいじゃないって、言い切れないんだね」
「四年前の君の傷と、今調べている呼吸の病気が同じ原因だという証拠はないよ。それに、あのときアルトが治療に協力していいか判断したのは大人たちだ。君が責任を負うことじゃない」
ニネットは鉛筆の先を爪で押さえた。
「じゃあ、アルトは嫌だって言えたの?」
「俺は昔の診察を見ていないから、あの日アルトがどう答えたかまでは分からない。でも、四年前の個別治療票には担当の竜医者が確認したことが残ってる。今も治療を頼むときは、竜が引き受けるかどうか確かめているよ」
「……よかった」
少女は椅子へ戻り、描きかけの絵の続きを始める。アルトの翼だけでなく、胸の動きや眠るときの姿勢まで丁寧に描いていた。
マリエッタは帰りがけに少女の絵を眺めた。
「最近、ずいぶん描き方が変わったね」
「前は模様ばっかり描いてたから。今は、アルトが何してるかも描くの」
レナートはその言葉を聞いて、記録のことを考えた。特徴的な模様へ目を奪われるあまり、竜が普段どう呼吸し、治療後にどう変わるのかを見ていなかったのではないか。
ニネットが帰ったあと、レナートはアルトの翼をもう一度観察した。鱗の白い模様は、ニネットの古傷と似た形のまま変わらない。今日も触れて痛がる様子はない。
検査で確かめられることは限られている。それでも、その模様があるから病気になるという説明なら、模様を持ったほかの竜にも同じ問題が多く起きるはずだ。今のところ、そうした関係は見えていない。
マリエッタは傷の記録を整理しながら言った。
「ニネット、今日は泣かなかったですね」
「泣くことだってありますよ。まだ十二歳です」
「先生、子どもには少し厳しそうに見えるのに、意外と優しいですね」
「厳しそう、は余計です」
受付係が笑う。レナートもつられて顔を緩めた。
午後遅く、別の診療所から共鳴痕を持つ竜の経過報告が届いた。負担の大きい治療へ長く協力した経験はあるが、現在の呼吸は安定している。竜医者が観察し、必要な休息を取らせていたことも記されていた。
その情報は、共鳴痕が呼吸障害を引き起こすという推測をさらに弱めた。しかし治癒息の負担そのものを否定するわけではない。
「模様があることと、治療で負担がかかったことは、分けて考えないといけませんね」
レナートは二つの記録へ別々の目印を付けた。
背後の窓では、ニネットの絵が夕方の風にかすかに揺れていた。四年前の傷の形は、今のアルトの翼にも残っている。形が同じでも、それが何を意味するかは、もっと慎重に考える必要があった。
診療所が閉まる前、リディアが治療件数を集計した表を持ってきた。
「先生、こちらをご覧ください」
その中には、一日に3回治療に協力して健康な竜と、1回だけなのに呼吸障害が悪化した竜がいた。
「年齢も環境も違いますから、単純には比べられませんが……」
彼女の指が、1回しか治療していない竜の欄で止まった。
「回数が少ないことは、負担が少ないことと同じではないのかもしれません」
レナートはペンを取り、二頭の治療内容に丸を付けた。
「1回で、何をどれだけ使ったのか。そこから見ましょう」




