第13話 二つの呼吸
「先生、ちょっと来てもらえますか」
若い世話係が診察室へ飛び込んできた。胸に抱えた回復確認票が、走ってきたせいで曲がっている。
「成竜の息が、途中で止まったように見えたんです。テオさんは、いつもの癖だって言うんですけど」
裏庭へ出ると、当の成竜は水桶の前で首を伸ばしていた。呼吸を乱した竜の姿を想像していたレナートは、まず足取りと胸の動きを見た。苦しがる様子はない。それでも、普段どおりかどうかは、今日初めて間近で診る自分には分からなかった。
「見たことを、順番に教えてください」
若い世話係は水を飲み終えたところから話した。首を上げ、息を吐き、次の息まで間があった。テオは腕を組んで聞いている。
「それは昔からやるんだよ。暑い日は特にな」
「でも、今朝はいつもより長かった気がします」
「いつもを知らないだろう、お前は」
言ったあとで、テオは口をつぐんだ。若者の耳まで赤くなっている。
「知らないから聞きに来ました。もし見逃したら困るでしょう」
レナートは二人に同じ位置からもう一度竜を見てもらった。無理に動かさず、呼吸の音と胸の動きを確かめる。水桶は朝から日なたにあり、水もぬるくなっていた。
「まず水を替えよう」とテオが言った。「木陰へ運ぶぞ」
二人が桶を動かすと、成竜は涼しい場所でゆっくり水を飲んだ。少し休んだあとの呼吸には、先ほどの長い間は見られなかった。すぐ病気と決める状態ではない。ただ、環境を変えたら落ち着いたという結果も、ここで見たことだけでは原因の証明にならない。
若い世話係が票を差し出した。
『息の間が長い。普段と違う可能性あり』
「こう書いたら、テオさんの記録と食い違いますよね」
「消さなくていいよ」とレナートは答えた。「見た時刻と場所、それから水を替えたことを書き足そう」
テオの票には『水を飲んだあと、一息休む。以前から見られる』とある。
「二人の紙は、両方残してください」
「同じことを書かなくてもいいんですか」
「同じことを見たかどうかも、まだ確かじゃないから」
テオは若者の紙を受け取り、しばらく眺めた。
「さっきの言い方は悪かった。明日はお前が先に見てくれ。俺は後で確かめる」
「……先に書いていいんですか」
「ただし、分からなけりゃ分からないと書け。格好つけるなよ」
若者は折れた票の角を伸ばした。
◇
午前中、リディアは別の病院から届いた個別治療票を机へ広げていた。
治癒息を使った回数は、一方の竜が一件、もう一方が三件。一件のほうは治療に十八分を要し、三件のほうはどれも短時間だった。ところが集計簿には件数しか書かれていない。
「三件の竜のほうが負担が重いと思っていました」とリディアは言った。「件数だけを見れば、そうなります」
レナートは一件の竜の回復確認票を開いた。治療前の観察時刻が離れていて、その時点で普段の呼吸へ戻っていたか分からない。
「こちらの病院の担当医に聞きましょう。一件が長かったことと、どんな状態で治療に入ったかは別の話です」
受付を通りかかったマリエッタが、二枚の紙を見た。
「病院が違うと、書き方も違うんですね」
「ええ。息が落ち着いた時刻がある病院と、休ませた時間だけの病院があります」
「じゃあ、今日みたいに二人が違う書き方をしてたら?」
答える前に、裏庭からアルトの寝息が響いた。窓がわずかに震えるほど大きい。
「あれは、誰が書いても『大きないびき』でしょうね」
「病名みたいに書かないでくださいよ」とマリエッタが笑った。
ちょうどノエがアルトを真似て大きく伸びをし、翼の先を机の脚に引っかけた。レナートが声を掛けると、若竜はすぐに翼をたたむ。数日前の発作から休ませており、安静時の呼吸は落ち着いている。
マリエッタはその姿を見て、声を落とした。
「ノエも、そろそろ仕事に戻りたがってるでしょうね」
「戻れるかどうかは、別に診てからです。今元気そうだからといって、決めるわけにはいきません」
テオが水桶を運びながら口を挟んだ。
「昔も、寝てるときだけ元気な竜はいたよ」
レナートは手を止めた。
「昔は、復帰するかどうかをどう決めていたんです?」
「毎日の様子は俺たちが見る。戻していいかは医者が決める。忙しくて上手くいかない日だってあったさ」
詳しく知るには、当時の記録が必要だった。
◇
午後、リディアが新しい観察票の見本を持ってきた。時刻、姿勢、休息場所、呼吸の変化。どれも必要そうだが、欄がずらりと並び、書き込むだけでも時間がかかりそうだった。
「これ、一頭診るたびに全部書くんですか」とマリエッタが聞いた。
「できれば、そのつもりでした」
「朝に竜が三頭来たら、受付の私も書くことになりますね。ノエはその間に水桶をひっくり返しますよ」
リディアが朝の受付帳簿を開く。人間側の治療予定と竜の休息場所の交代時刻が重なっていた。彼女はしばらく考え、見本の真ん中へ線を引いた。
「毎回書く欄と、変化があったときだけ書く欄を分けます」
「それなら使えそうです。さっきの水桶の話も備考に残せますし」
テオを呼んで渡すと、老人は紙の端を指で押さえた。
「時刻が抜けてる。朝と夕方じゃ、同じ竜でも息が違うぞ」
リディアは書き直した用紙を見直した。最初の見本にあった時刻欄を、移し忘れていた。
「あ、本当だ」
リディアが小さな欄を足す。見本の余白には早くも三人の字が重なった。
交代の前に、若い世話係がもう一度訪ねてきた。朝の記録を次の担当者へ渡そうとして、テオの『以前から見られる』という一文を指した。
「この『以前』って、いつからですか?」
テオはすぐには答えられなかった。
「昔から見てると、いつが最初だったか分からなくなるもんだな」
「じゃあ、今日は今日見たことだけ、次の人に渡します」
若い世話係は二枚を重ねず、観察した人の名前がそれぞれ読めるように綴じた。レナートが記録を引き取ると、テオは若者に明日の水桶の置き場を教えていた。
診療所の棚には、昔の竜たちのカルテが残っているはずだった。普段の呼吸をどう引き継いでいたのか。レナートは探そうとしたが、最初に開けた引き出しは空だった。
「そこは人間の個別治療票ですよ」とマリエッタが言った。
竜の記録は別の綴りにあるらしい。レナートは引き出しを閉め、案内を頼んだ。




