第7話 翼に残るもの
ノエが倒れたのは、午後の診療が終わろうとしていたころだった。
その日の作業は、予定を大幅に減らしていた。右の翼の傷は治り、安静時の診察でも目立った異常は見つからない。担当医としてのレナートの確認と、ノエ自身の落ち着いた様子を見て、短い治癒息の補助だけを認めた。
ところが、診療を終えて庭へ戻ったノエは、いつもの場所まで歩かずに立ち止まった。胸が浅く上下し、翼をたたみかけたまま動かなくなった。
「ノエ?」
世話係が声をかける。ノエは首を向けたが、足がもつれた。身体が傾き、石の床へ横倒しになる。
レナートは廊下から駆け出した。
「動かさないで。周りを空けてください」
マリエッタが患者を庭から離し、テオがノエの頭の下へ厚い布を敷いた。アルトは奥で身体を起こし、若い竜をじっと見ていた。
ノエの大きな翼が、石床へぶつかりかけた。テオが翼端の下へ丸めた敷物を滑り込ませる。脇に置かれていた器具箱をレナートが足で遠ざけると、金具が中で鳴った。
「頭を押さえつけないで。息がしやすい向きだけ支えてください」
世話係が二人、ノエの身体を無理に起こさないよう支えた。アルトが近づこうとしたので、マリエッタは一度手を上げ、通り道を空けるまで待ってもらった。誰か一人でも足を取られれば、倒れたノエの近くへ危険な道具が転がり込む。
レナートは自分の手が震えていることに気づいた。落ち着け、と言い聞かせる代わりに、まずノエの息がどのくらい続いているか、数え直した。
ノエの呼吸は速い。胸郭の動きに左右差はないが、息を吐ききったあと、次を吸うまでの間がところどころ長くなる。数えるほどに規則を失っていく。
「治療はすべて中断。ノエにはもう治癒息を使わせないでください」
レナートは呼吸器官の状態を確かめ、竜に負担をかけない姿勢へ身体を整えた。テオが普段の呼吸の様子を伝え、マリエッタは発症時刻と治療内容を記録する。
急いで追加の診察器具が運ばれた。診療室の窓を開け、周囲の空気を確かめる。治療した部屋の温度や、直前にどの程度治癒息を使ったかも確認した。
ノエは何度か苦しそうに首を伸ばし、それから長く息を吐いた。呼吸の間が少しずつ整い始める。
レナートはその場を離れず、経過を見続けた。無理に立たせない。余計な刺激も避ける。
「落ち着いてきた?」
マリエッタが小さな声で尋ねた。
「少しずつ。でも、原因が分からないまま帰すわけにはいきません」
アルトが近づこうとして、テオに静かに止められた。ノエが首を動かすと、老竜は足を止め、その場に伏せる。距離を置いたまま、若い竜のほうを見ている。
診療所の時間が、いつもよりゆっくり流れた。
マリエッタが渡す水布の温度を確かめ、テオがノエの身体の向きを少しずつ整える。レナートは聴診器を当て、呼吸の音の変化を追った。竜の身体が大きいぶん、一度姿勢を変えるにも何人もの手が必要になる。
背中側の呼吸音を聴くには、身体を少しずらさなければならない。テオはノエに声をかけ、世話係たちと合図を合わせた。レナートは動き出す前に聴診器を外し、翼が台座へ引っ掛かっていないかを確認する。
「身体を支えてください。翼は引っぱらないで」
レナートの声に、二人の世話係が左右へ分かれた。診察台の脚が床を擦り、マリエッタが足で止める。通れると思っていた幅は、竜が翼をかばっただけで足りなくなった。
テオはノエの正面に立たず、首が向く先を空けた。ノエがアルトを見つけると、ようやく身体を預けてくる。レナートは胸の動きを見ながら、身体をずらす範囲を手で示した。
ほんのわずかな移動なのに、ノエは息を詰めた。
「いったん止めましょう」
レナートの声で皆の手が離れる。無理に診察を続ければ、状態を調べるための行動そのものが負担になる。ノエの肩の動きが落ち着くまで待ち、必要な確認を段階的に進めた。
水桶を運んできたマリエッタが、床の隅に置いた時計を見た。初めて呼吸が乱れてから、思っていたより時間が過ぎている。彼女は時刻を書き留める手を休めなかった。
最初に呼吸が速くなったとき、ノエは不安そうにアルトを探した。今は、少し離れたところで老竜が身体を低くしているのを見つけたらしい。若竜は目を閉じ、再び息を吐いた。
「アルトを近くへ連れてきたほうが」
テオの提案に、レナートは周囲の動線を見て考えた。今は器具が並び、世話係が出入りしている。無理に巨体を近づければ危険だ。代わりに、ノエからアルトの姿が見えるよう寝床の向きを少し調整した。
その小さな工夫で、ノエの身じろぎが減った。呼吸の乱れを治すものではないが、診察しやすい状態は作れる。
「自分で息を整えられるところまで、焦らず見ます」
レナートはテオへ言った。
不安の中で時間が過ぎた。窓の外の光が変わるたびに、記録の時刻も増えていく。一本の線を描くように、ノエの呼吸は少しずつ安定した。短く観察して『落ち着いた』と記してしまえば、それまでどれほど不規則だったかは分からなくなるだろう。
マリエッタは臨時の記録欄へ、観察した人の名も付けた。
「誰かが交代しても分かるようにしておきます」
レナートは礼を言い、ひとつ前の時刻へ目を戻した。異常が消えた、と断定できる状態ではない。それでも命の危険が迫る様子は遠のいている。
ノエが小さな声で鳴いた。庭のアルトが、その音にだけ反応して首を上げた。
夕方には、ノエの呼吸はかなり安定した。危機を越えたように見えても、レナートは再発に備えて観察を続けることにした。
夜の見守りを誰が引き受けるかを決める段になると、テオが真っ先に手を上げた。
「この子の普段の呼吸なら、俺が一番よく知ってます」
「一晩中は駄目です」
マリエッタが、まだ濡れたままの彼の袖を見た。
「倒れたときからずっとここにいるでしょう。交代して休まなきゃ、明日の変化に気づけなくなります」
レナートは二人の間へ観察表を置いた。時刻をそろえ、安静時の呼吸と体勢、変化が起きたときの連絡方法を確認する。誰かが夜を一人で引き受けるのではなく、テオは前半、もう一人の世話係は後半を担当し、レナートは異変があれば呼んでもらうことにした。
「ここまで詳しく書く必要がありますか」とテオが聞いた。
「明日の俺が今夜のあなたに聞けないことを、残しておきたいんです」
テオは観察表を見下ろしたあと、無言で鉛筆を取った。
症状が出る直前、ノエがどこにいたか。何を食べたか。今日の治療に協力する前には、どの程度休んでいたか。
ひとつずつ尋ねるうちに、レナートは赴任初日の診察を思い返していた。ほんの一瞬だけ、ノエの息に妙な間が生じた。あのときは落ち着いて見えたため、経過観察へ回した。
あれも同じ兆候だったのだろうか。赴任初日は呼吸の不規則さを測定していないし、カルテにも異常の確かな数値は残っていない。レナートが覚えているのは、ごく短い間、息を吸うまでが長かったように見えたことだけだ。
証拠が足りない以上、今回の異変を初日まで遡って断定するわけにはいかない。だが、次の診察では、ノエの普段の呼吸をもう少し長く観察しようと決めた。
マリエッタが記録を机へ持ってきた。
「アルトの共鳴痕のこと、関係していると思います?」
「分かりません。ただ、模様のあるなしと呼吸の問題を一緒に考えていいかも、まだ分からない」
「じゃあ、分けて書きましょう」
「ええ。分かっていることだけ」
その夜、レナートは医療局へ報告を送った。患者の容体が落ち着いたこと、治癒息使用後に呼吸の間の異常が現れたこと、原因は未確定であること。ほかの地域の症例とも比べたいこと。
返事が届いたのは、数日後だった。
調査対象となる病院は一つではなかった。重症化した竜にも、治療回数の多い個体と少ない個体が混じっている。
報告の返事を受けてから、レナートはノエの診察を以前より長く取るようにした。世話係の記録へは、症状がない時間帯も残す。呼吸の荒さが消えたときに何が変わったのかが、あとで比較できるようにするためだ。
午前中、ノエはアルトの隣で眠っていた。時々目を開けてレナートを確かめるが、診療室へ入ろうとはしない。疲れが残っているのか、いつもより遊ぼうとする様子が少ない。
「休ませていたのに、あんなことが起こるなんて」
テオが敷物を直しながら言った。
「判断を急ぎすぎたかもしれません」
レナートは答えた。
「でも、その判断だけが原因だと決めつけるのも早い。いつから呼吸が変わったのか、どこに負担が残っていたのかを調べたいです」
テオは頷き、ノエの胸元へそっと手を当てた。長く世話をしてきた人の手つきだった。
「この子がまだ小さいころ、アルトの後を追って転んだことがある。身体が大きくなっても、昔の癖はなかなか抜けないもんだ」
レナートは若い竜の首を見た。ノエはアルトへ鼻先を寄せようとしたが、老竜は身体を半回転させ、日陰を譲らない。
いつもの二頭だった。そのいつもが続いていることが、レナートには少し嬉しかった。
報告を読み終えたレナートは、裏庭にいるノエを見た。若い竜は今、アルトのそばで安静にしている。
ノエが息を吸う。その音に聞き耳を立てていたのは、レナートだけではなかった。
老竜の琥珀色の目も、若い竜から離れない。
医療局の最後の一文には、こうあった。
『現地での正式な監査を実施する。担当監査官は近日中に到着予定』




