第6話 署名のない報告
王都からの封書には、レナートの名前が丁寧に記されていた。
封を切るまでに時間がかかったのは、書類の厚さのせいではない。差出人の印章を見た途端、病院の長い廊下と、あの会議室の匂いを思い出したからだ。
書類には診療データの照会依頼が書かれていた。別の病院で治癒息を担当した竜が呼吸を乱し、過去の安全報告との関連を確認したいという。
「また王都ですか」
マリエッタが茶を置いた。
「また、というほど手紙は来てません」
「顔がそんなふうに言ってます」
「王都でも、似た報告書で揉めたことがあるんです」
レナートは封書を伏せた。
王都の病院では、竜の治療後の様子をまとめた安全報告に、確認できない記載があった。記録では『回復』となっているのに、詳しい呼吸の経過が残っていなかったのだ。
署名を求められた彼は断った。何が不足しているのかも指摘した。そこまでは間違っていないと、今でも思う。
しかし、その先が続かなかった。
会議では、担当部署が違う、記録様式が違う、期日が迫っている、と説明が重なった。レナートは提出できない理由を繰り返し、誰が何を確認し直すかを決められなかった。結局、報告は保留となり、別の担当者が現場を走り回った。
「それで先生は、どうしたんです?」
マリエッタの問いに、レナートは答えづらさを覚えた。
「署名を拒みました。安全だとは言えなかったので」
「そのあと」
「必要な記録を求めました」
「誰に?」
目を上げると、マリエッタは茶碗を片づけていた。責めるというより、仕事の続きを尋ねている顔だった。
「担当の部署へ。……ただ、病院ごとに様式が違っていて、すぐには集まらなくて」
「そう。困ったでしょうね、現場も」
彼女は封書を指した。
「今は、ここにも患者さんがいます。今度はどうするんです?」
レナートは改めて依頼を読み直した。病状の経過、治療を担当した竜の年齢、治療時間、次の診察の記録。必要なものは挙げられているが、一部は別の病院で保管されている。
「こちらで分かる範囲を整理して、担当者と直接話します」
「ええ。書類を送って終わりにしないなら、いいと思います」
言い方は素っ気なかったが、マリエッタは翌朝の連絡便の時刻を教えてくれた。
マリエッタが席を外したあと、レナートは王都の会議室を思い出した。
壁の時計が午前十時を過ぎても、誰も記録の不足を重大な問題として扱おうとしなかった。担当者は全員まじめに仕事をしていた。診療の件数を集計した者、回復確認票を取り寄せた者、提出期限を守ろうとした者。誰も竜を苦しめようとしていたわけではない。
「回復したと書いてあります」
若い担当者はそう説明した。
「その『回復』を確かめたのは誰ですか」
「診療所側です。報告の規則に従って」
「なら、その根拠を見せてください。治療に戻していいと、どうやって判断したんですか」
会議室が静かになった。誰かが問題ないと言えば、レナートはその根拠を求めた。別の誰かが時間がないと言えば、時間がないことは安全の証明にならないと返した。
後になって考えれば、ひとつでも次にできる仕事を割り振るべきだった。誰がどの病院へ連絡し、どの記録を確認し、いつ再び判断するか。必要だったのは署名しないことだけではない。
けれど、あのときのレナートには、誤った報告に手を貸さないことしか見えていなかった。
あのとき、向かいに座っていた職員は、報告書をひったくるような人ではなかった。むしろ困った顔で、空白の欄を何度も指していた。
「署名できないのは分かった。では、明日の診療で誰がその竜を見る?」
そう聞かれたのを覚えている。レナートは「担当部署が決めるはずです」と答えた。自分が見つけた問題を、その後誰が引き受けるのか。職員が知りたかったのは、きっとそこだった。
結局、責任者が会議を打ち切った。返された書類には、署名欄だけが白いまま残った。横から見れば、レナートが一人だけ仕事を拒んだようにも見えたかもしれない。
記録係の若い女性が、会議室の隅で束ねた紙を抱え直した。別の病院へ照会するには、患者と竜の対応番号が必要だったが、資料の一部は別室の箱に入ったままだった。
「確認先を、どなたか教えていただけませんか」と彼女は尋ねた。
レナートは「不足しているのは回復確認票です」と答えた。正しい名称を伝えれば、次へ進めると思ったからだ。
「どこの病院に、何番の票があるのかを知りたいんです」
女性はもう一度聞いた。そのとき、レナートは初めて自分が保管場所を調べていなかったことに気づいた。会議はすでに終わっていた。彼女が抱えた紙束の一番上に、提出期限が赤字で書かれていた。
あのとき補助の記録を探しに行った看護職の女性は、夜遅くまで働いていたとあとで聞いた。自分は正しい理由で断った。だが、その女性の仕事を軽くするために何をしただろう。
レナートは封書を表へ返した。
王都からは、新しい症例の比較を求められている。また署名を断って終わりにすれば、同じことが起こる。少なくとも、誰へ連絡すれば記録が集まるかくらいは、自分の手で調べられるはずだった。
返送する書類には、単に『調査中』と書くだけでは足りない。レナートは資料を取り出すと、どの診療所の誰へ確認すればよいかを一行ずつ書いた。番号の分からない治療については、分かったふりをせず、担当者へ照会すると明記する。
「返信期限、明日なんですね」
マリエッタが送り状をのぞき込んだ。
「全部そろうのを待つつもりはありません。まず、こちらで分かったことだけ送ります。足りない分は、誰がいつ確認するか一緒に伝えます」
「それなら、返事をもらう側も次の手を考えやすいですね」
受付係は伝票の控えを差し出した。王都行きの連絡便は、明朝の便に間に合わせればいい。レナートは書類を持ち帰り、その夜に不足している観察時刻を整理することにした。
午後、レナートは資料を調べながら、庭にいるノエの様子を確かめた。帯の擦れは治りかけ、翼を広げる動きも自然だ。だが、治癒息の仕事に戻してよいかは別の問題だった。診療を再開する前の検査日を、世話係と相談して決める。
マリエッタは受付で、ロザンナから届いた焼き梨を半分に切っていた。
「アルトには半分だけですよ」
「もう半分は?」
「先生に、じゃなくてノエにです」
老竜が不服そうに喉を鳴らし、レナートは少し笑った。
王都へ返信を書き終えたとき、レナートは署名欄の横へ一行添えた。
『不足している記録の確認先を、別紙に記しました。必要であれば、私からも連絡を取ります』
立派な文章ではなかった。ただ、前よりは一歩だけ先へ進む言葉だった。
その日の終業後、レナートは病院に残っていた同僚宛てに短い手紙を書いた。手紙の書き出しを何度も消したのは、謝罪の言葉に悩んだからではない。何を確かめたいのか、具体的に書こうとすると、意外に自分の理解が曖昧だと分かるからだ。
『治癒息に協力した竜の治療後の状態を追っています。前回の安全報告に使用した竜のカルテと、その後の経過観察の資料の保管場所を教えてください』
そこまで書いてから、もう一行加えた。
『必要な病院への照会はこちらでも分担します』
小さな違いだった。以前のように他人へ不足を突きつけるだけでなく、自分が引き受ける作業も明記した。
外へ出ると、診療所の前を若い配達員が通っていた。ロレンツォに教わった道を覚えるため、わざと一本遠回りしてきたという。
「覚えるの、大変ですね」
レナートが声をかけると、若者は笑った。
「道は走れば分かります。でも、荷を持つ人の都合も覚えなきゃいけないんです。届け先に人がいなかったら、結局やり直しですから」
レナートはしばらく考えた。診療報告でも同じかもしれない。正しい内容を書いただけでは届かない。読む人が必要な時刻に、必要な形で受け取れるようにしなければならない。
同僚宛ての手紙を若者へ渡すと、彼は荷袋へ大切そうに入れた。
「王都へは明朝の便です。遅れないように出します」
見送ったあと、レナートは受付の灯りを消した。裏庭でアルトが低く鳴き、ノエが短く応じる。二頭の息遣いは落ち着いて聞こえたが、明日も同じとは限らない。
翌朝、速達便が出る前に、新たな短い通知が届いた。
届けてきた若手の配達員が、封筒を机へ置く前に言った。
「王都からの別の連絡もありました。照会先の病院を確かめて、資料を送ってくれるそうです」
レナートは少しだけ肩の力を抜いた。問題はまだ一つも解決していない。それでも、相手が次に何をするかは、前よりはっきりしていた。
レナートは、医療局宛ての返信を封筒へ入れる前にもう一度取り出した。いつか見た報告書と、よく似た書き方になっていた。異常を指摘し、原因は不明と記し、担当部署の判断を求める。それだけなら、王都にいた頃と何も変わらない。
「宛先は医療局だけでいいんですか」
マリエッタが午前の受付帳簿を持ってきた。
「世話係にも必要なところを渡します。ノエの診察で気になることがあったら、こちらに先に知らせてもらいたい」
「医療局の返事を待たずに?」
「調査の結論は待ちます。でも、明日の診察予定を決めるのに、王都の許可はいりません」
封書を脇へ置き、レナートは今日から診療所でできることを書き出した。治癒息を使った時間と、そのあとの呼吸の様子を分けて記録すること。翌日の診察で平常時との違いを見ること。気になる変化があれば予定を見直すこと。
マリエッタは読み終えて、紙の最後を指さした。
「誰がそれを見ます?」
レナートは世話係の名を書こうとしてやめた。明日の朝から夜まで、同じ人がいるわけではない。
「交代する人にも引き継げるように、書く欄を作ります」
「それならテオにも頼めますね。細かい字は苦手ですけど、あの人の観察は当てになります」
誰かの経験だけに頼り切らず、その経験を無かったことにもせずに済むように。レナートは用紙に観察者の名前と時刻の欄を加えた。まだ不完全なものだったが、机に置いたままの報告書とは違い、明日の朝に使う人がいる。
マリエッタが用紙を二枚写して受付へ持っていったあと、レナートは王都宛ての封を閉じた。
別の竜も呼吸を乱している。治療件数は多くない。むしろ比較的少ない個体だという。
レナートは報告を重ねず、一枚ずつ机に置いた。件数の少ない竜の欄に、赤い印がついている。なぜその印が必要になったのか、報告書には書かれていなかった。




