第5話 遠回りの手紙
ロレンツォは、診察を受けるために診療所へ来たのではない、と何度も念を押した。
「手紙を届けに来ただけだ。膝のことは関係ない」
「そう言いながら、さっき階段で足を引きずっていました」
マリエッタが伝票を受け取る。背の高い配達人は、やけに大きな荷袋を抱えていた。右膝に巻いた布は昨日のものらしく、端がほどけている。
「若いのに荷を任せると、宛先が一軒抜ける」
「若いのに任せなかったら、いつ覚えるんです」
「俺が覚えてるうちは困らん」
「その膝が困ってますよ」
あまりに慣れた会話で、レナートは口を挟むきっかけを見失った。
隣の診察室ではエーヴァが患者を診ていた。配達人はまだ抗議を続けていたが、診察を勧められると渋々荷袋を下ろした。膝の動きに大きな異常がないことを確かめたうえで、エーヴァは休息と負担の軽減を指示する。
「分かった。今日は軽い道を選ぶ」
「その言い方で昨日も、川上まで行ったそうですね」
「橋を一つ減らした」
「坂は増えてるでしょう」
ロレンツォが黙ったので、マリエッタは勝ち誇ったように笑った。
昼過ぎ、レナートは配達経路を見直す話し合いに巻き込まれた。竜の休息所へ届ける薬草と布の束があり、若手の配達員にはその道が分からないという。
荷の上には、川上の休息所にいる世話係宛ての手紙が一通載っていた。封筒の角が少し折れ、宛名は年寄りが読みやすい大きな字で書かれている。届けたいのは薬草だけではない、とロレンツォは言った。
「誰かの返事を待ってるやつがいる。道が少し遠いからって、次の便へ回せん」
若い配達員は手紙を持ち直した。ロレンツォのように片手で荷袋を担ごうとして、うまく上がらず、両手を使う。老人は鼻を鳴らしたが、代わりに持とうとはしなかった。
ロレンツォは地図に指を置く。
「普通は南の橋を渡る。だが荷車の多い時間は通れない。石竜が荷を運ぶときは西の広い道だ。翼の長い竜なら木の枝にも気をつける」
「全部、頭に入ってるんですか」
「五十八にもなればね」
「だから、それを誰かに渡したほうがいい」
レナートが言うと、配達人は眉を寄せた。
「紙に書けば済むと思ってるのかい。雨の日には川沿いの土が崩れる。祭りの日には橋の上で屋台が出る。そいつは紙を見ただけでは分からん」
「じゃあ、一緒に歩いて教えましょう」
マリエッタが口を挟んだ。
「今日じゃなくて、膝が楽になってから。最初は若手が荷を持って、あなたは道を教える。それなら?」
ロレンツォは荷袋を見た。しばらくしてから、布の取っ手をほどき、薬草の束を若い配達員へ渡した。
「ここは夕方に風が強い。布を結び直しておけ」
若者は真剣な顔で頷いた。
話し合いだけで終わるのは、ロレンツォの性分に合わなかった。彼は若い配達員を連れ、荷の軽い昼の便で実際に道を教えることにした。
レナートも途中まで同行した。石橋の上には荷舟からの積み荷を受け取る人々が並び、パン屋の手前では大きな荷車が道を塞いでいた。紙の上では一本の線でも、実際の道には待つ時間がいくつもある。
若者は荷袋の上から宛名を一枚抜き、路地の札と見比べた。同じような名前の通りが二本、橋を挟んで向かい合っている。
「こっちの家へ行くんじゃないんですか」
「間違えたら手紙が一日遅れる。よく見ろ、最後の字が違うだろ」
若者は荷札の端をこすり、もう一度声に出して読んだ。ロレンツォは答えを先に言わず、杖で西の路地を示す。
「道を知ってるだけじゃ、配達は終わらん。向こうの名前をちゃんと聞いてから渡せ」
若者は手紙を荷袋へしまい直した。老人の膝ばかり心配していたが、自分が間違えれば誰かを一日待たせることになる。その重さにもようやく気づいたらしい。
「ここは曲がるな。竜を連れてるときは、壁に翼が当たる」
ロレンツォが先に立つ。若者が見ていた地図には、その注意は書かれていなかった。
石橋を降りたところで、通りの向こうから荷を曳く大きな竜が現れた。背負った籠が橋の手すりへ触れかけ、若い配達員が慌てて壁際へ寄る。ロレンツォがその肩を押して、軒先の段差のない場所へ導いた。
「そこは竜が曲がる余地だ。自分が逃げれば、荷が人に当たる」
「分かってます」
「分かってないから、今ここに立ってるんだろう」
若者は言い返しそうになったが、竜が通り過ぎるまで黙っていた。その背の籠が、あとわずかで自分の頭に触れる高さだったことに気づいたらしい。
しばらく歩いてから、若者が立ち止まった。
「さっきの場所、地図に描かせてください。ただ『竜に注意』じゃ、次の人も同じことをします」
ロレンツォは文句を言いかけて口を閉じた。若者が写した橋の絵には、手すりだけでなく、人が立ってはいけない範囲も描かれていた。
「なら、地図に書き足しましょう」
「字だけで伝わるかな」
「伝わらないところを、今日教えてもらいます」
若者の返事に、老人はようやく笑った。
川上へ分かれる道へ着くと、ロレンツォは手紙の宛先を念のため確かめた。封は破れておらず、薬草も濡れていない。ここから先はまだ登り坂が続く。
「ここまででいい。先は俺が行く」と言いかけた老人へ、若者が首を横に振った。
「今日は僕が行きます。帰り道で迷ったら、橋の手前まで戻って、聞いてきます」
「余計に時間がかかるぞ」
「それでも、次は一人で届けられます」
老人は膝をさすり、少し離れた斜面を見た。そこでようやく、荷を自分の手から離した。
若者と別れてから、ロレンツォの膝が少し痛み始めた。平気な顔で石段を降りようとしたが、手すりにつかまった瞬間に顔をしかめたのを、レナートが見つける。
「今日はそこまでにしましょう」
「全部教えてない」
「今日教えたことを、次に覚えてるか確かめるほうがいいです」
老人は不本意そうだったが、若者に任せた荷袋のことを思い、川上へ続く道を振り返った。
「あいつ、俺より速く歩けるんだな」
「それは、今さらでしょう」
レナートが言うと、ロレンツォは小さく笑った。
「道も俺より覚えるようになるかもしれん」
それは寂しさに似た声だった。しかし、悪いことばかりではないと考え始めているようにも聞こえた。
その後、ロレンツォは受付の棚から古い配達帳を見せてくれた。紙は日に焼け、所々に雨染みがあった。
「十七年前の災害のときは、もっとひどかった。医療の物資を運ぶのに、町中を走り回ったからな」
開いたページには、時刻と配達先が細かく並んでいる。
十三時二十分、ロザンナの母の店の裏庭。水布、寝具、薬草。
「この時間に、休むための場所を用意していたんですか」
「ああ。中央の臨時診療所では、治癒息を使う治療を四時間止めた。みんな知っている話さ。待っていた人には長い四時間だったろう」
ロレンツォは声を落とした。
「俺にできたのは荷を運ぶことだけだ。医者じゃなかったからな。だが、あの布がなきゃ眠れなかった竜もいた」
レナートは帳面の欄外に残る道順を見た。大通りを避けた遠回り。川を渡り、さらに戻るような経路だった。
「ずいぶん遠回りしてますね」
「近い道が、いつも通れる道とは限らん。人も竜も一緒だよ」
配達人は照れたように鼻をこすった。
夕暮れ、若手の配達員が無事に戻ってきた。川上の世話係へ手紙を手渡したあと、頼まれた水布の束まで届け、帰り道は日陰の多い西の道を選んだという。
ロレンツォは伝票を確かめ、一つだけ字が違うと文句を言った。しかし、若者が持ち帰った新しい道の印を見つけると、黙って地図を自分のほうへ引き寄せた。
「その角、もう少し広く描け。荷車がすれ違える」
「じゃあ、ここは僕が直しておきます」
若者が筆を取るのを見ても、老人は荷袋を自分で持ち直さなかった。
レナートが診療所の戸を閉めるとき、ロレンツォの声が路地から聞こえた。
「明日は北の橋からだ。あそこには、図面にない段差がある!」
若者の返事は、川の音に紛れて届かなかった。




