第4話 母の診察券
ロザンナのパン屋では、パンより先に竜が怒っていた。
裏庭に連れてこられた若い荷運び竜が、壁際へ寄ったまま鼻を鳴らしている。地面へ用意された寝藁には目もくれず、門のほうへ戻ろうとするのだ。
「昔はここで昼寝してたんですよ。母が生きていたころなんて、何頭も重なって寝てました」
ロザンナは焼きたてのパンを棚へ運びながら言った。働き盛りの太い腕には小麦粉がつき、叱りつけるような口調もどこか温かい。
「最近になって嫌がるんですか」
「煙突を直した先月あたりから。気に入らないなら別の庭へ行けばいいけど、うちの裏が悪いって噂されたら困ります」
竜を庭からいったん出して、レナートは休息場所を調べた。水桶には新しい水があり、土の表面も清潔だ。寝藁も湿っていない。
「日陰が少ないのかな」
「夏場は日よけを張ります。今はそこまで暑くないはず」
ふと、レナートの頬に乾いた熱気が当たった。裏口の高い壁に沿って、焼き窯の排気が流れてきている。
煙突の向きを変えたとき、排気の出口も庭のほうへ寄せてしまったらしい。人間が立つ高さでは気にならなくても、竜の顔が来る位置には熱く乾いた空気が滞留していた。
「窯が動いている時間にだけ嫌がりませんか」
ロザンナは粉のついた手を止めた。
「……そういえば。夜は勝手に入り込んで寝てるって、朝番が言ってました」
修理職人は屋根を見上げ、眉間に皺を寄せた。
「覆いを付けるだけなら早いが、風向きによっては煙が隣の家へ回る。窯の火を強くした日も見なきゃならん」
「今日の昼には納品があるんですけど」
ロザンナが帳場の注文票を握ったまま言った。診療所から借りてきた竜のために、パン屋の仕事を止め続けるわけにはいかない。
「応急処置だけで、竜をこの庭で休ませるのはやめてください」
レナートが言うと、ロザンナは唇を尖らせたものの、店員へ窯の段取りを頼んだ。修理職人は、排気が屋根の上へ抜けるように直す必要があると説明した。道を通る人や店の厨房へ煙が戻らないかも確かめることになった。
修理職人は仮の板で風を逃がし、竜を入れないまま流れを調べた。それから排気が屋根側へ抜けるよう金具を組み直す。作業台を出す間も、ロザンナの店員たちは注文のパンを焼き続けていた。
「あと十分で二番窯です!」
店の中から声が飛ぶ。ロザンナは修理職人へ向き直り、指を二本立てた。
「焼き上げるのは止められない。強い火で試せるなら、いまやってください」
「煙が逆流したら、菓子が全部駄目になるぞ」
「そのときはお客さんに謝る。竜が煙を吸って苦しむより、ずっといい」
言い切ったあと、ロザンナは値札の付いた籠を店員へ渡した。できれば失いたくない一日の売上と、竜を休ませる場所。彼女はどちらも誰か任せにするつもりがなかった。
窯を弱く焚いたときだけでは足りない。昼の焼き上がりに合わせて火を強め、煙と熱気が庭や店の中に戻らないことを確かめた。ロザンナはその間、客に待ってもらった焼き菓子を包み、代わりに焼き上がったパンを一つ添えて渡した。
作業が終わるまで竜には別の休息場所を使ってもらい、排気が落ち着いたところで再び若い竜を庭へ案内した。今度は水を飲み、寝藁へ身体を下ろした。
「やれやれ。竜が客じゃなくて助かりましたよ」
「客だったら?」
「代金をもらって、堂々と苦情を聞きます」
ロザンナは腹の底から笑った。
壁の隅には、布を張るためらしい古い環が残っていた。昔はここに、もっと大きな日よけをかけていたそうだ。
「母がいたころは、ここを竜の休息場所にしてたんです。災害のときもそう。アルトも、もう一頭の赤い竜も休ませていました」
「赤い竜?」
「セヴラン。今は川上で隠居してるって聞きますよ」
レナートは名を覚えておくことにした。
その間にも、ロザンナはパン屋の奥へ何度も戻らねばならなかった。生地は待ってくれないのだ。
次の焼き上がりを始めると、年若い店員が窯からパンを運び出した。熱い鉄板が台へ触れ、乾いた音がする。裏庭の竜はその音にも少し驚いたが、熱気に顔を背けることはなくなっていた。
「これで休めるようになるなら、母さんが喜ぶでしょうね」
戻ってきたロザンナが、焼き色の薄いパンを一つ脇へ避けた。
「お母さんも竜が好きだったんですか」
「好き、だったのかな。忙しいときには文句も言ってましたよ。水をいくら運んでもすぐ飲み干すし、寝藁は毎日汚すし」
彼女は苦笑した。
「でも、文句を言いながら、世話はちゃんとする人でした。私は手伝いもしなかった。パン屋の仕事で精一杯だって言い訳して」
レナートは返事をせず、店の奥の古い写真を見た。窯の前に立つ若い女性と、彼女の後ろで大きな頭を突っ込む灰青色の竜。今のアルトより角が鋭く、鱗にも艶がある。
「アルトです。昔はあいつ、今より落ち着きがなくて」
「今でも十分、落ち着きがないですよ」
「じゃあ、どれだけひどかったか想像できるでしょう」
ロザンナは軽く笑ったが、写真を見つめる目はやわらかかった。
修理が済んでからも、レナートは同じ場所に立つ位置を変え、温度と風を確かめた。高い場所と低い場所では、流れてくる空気が違う。自分の顔の高さだけを基準にしていたら、竜が何を嫌がっているのか分からなかっただろう。
店の奥で帳場を開くと、ロザンナは薄い木箱を取り出した。中には古い診察券と、端が擦り切れた手帳が入っていた。
「母のです。捨てられなくて」
手帳には時刻と竜の名が並び、それぞれに丸や斜線が付けられていた。アルト、セヴラン。折れ癖のあるページには水布の交換回数まで書かれている。
ロザンナは紙を広げようとして手を止めた。角に残る小麦粉の染みを、爪で払う。
「母さん、パン屋の帳簿だってこんなに細かくつけなかったんですよ。なのに、この二頭のことは何度も書いてる」
「いつも世話をしていたんですか」
「いいえ。忙しい日は別の人に任せてた。でも、具合が変わったら誰に伝えるのかだけは、必ず書いてました」
手帳の端に、短い名前と時刻が追記されていた。レナートは読み取りづらい文字を指でなぞりかけ、原本だと気づいて手を引っ込めた。これだけで診断はできない。ただ、担当者が替わっても様子を伝えようとした跡が残っている。
「この印は?」
「母が付けた印みたいです。何を区別していたのか、細かいことは分かりませんけど」
ロザンナはそのまま、別の診察券を差し出した。本人の名と、十七年前の日付が記されている。
「私もあのとき怪我をしました。アルトに治してもらったんです。夕方になってから」
レナートが傷の状態を尋ねると、ロザンナは腕の内側を見せた。長い年月に薄くなった跡が、灯りの下で白く見える。
「母が竜の世話をしてたのは、知ってますよ。みんな忙しかったのも。でも、あのときは、子どもじゃないくせに、そばに来てほしかった」
レナートが返事を探しているあいだに、奥から焼き上がりを知らせる鈴が鳴った。
「すみません。仕事の途中だった」
「手帳、あとで見せていただけますか」
「診療に必要なら見せますよ。でも母の大切な手帳なので、原本はお渡しできません」
「もちろんです」
レナートは、内側に折れ込んだ紙の角を直して箱の蓋を閉じた。
店を出ると、春風に乗って焼きたてのパンの香りが漂ってきた。裏庭では若い竜が寝藁に身体を沈めている。ロザンナもあとから出てきて、水桶をそっと前脚のそばへ寄せた。
ロザンナは門のそばにいた店員を呼んだ。
「庭の風、変わってない?」
店員は竜の顔の高さまでしゃがみ、手のひらをかざした。
「今は大丈夫です。熱い風も来ていません」
「明日は窯に火を入れる前にも見てよ。焼き始めてからじゃ直せないんだから」
焼き窯の熱気は、直した排気口から屋根の上へ抜けていった。
店の中では、次のパンを窯に入れる音がしていた。




