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第3話 傷を描く少女

 少女が差し出した紙には、アルトが描かれていた。


 実物より少し首が長く、角の欠けた向きも逆だったが、横柄な目つきは驚くほど似ている。アルトを長く知るマリエッタが、口元を手で隠して笑った。


「本人に見せてあげた?」

「見せたよ。踏もうとした」

「気に入ったんでしょうね」

「絶対ちがうと思う」


 ニネットは十二歳。四年前、運搬中に倒れた荷箱の破片で腕を切り、アルトの治癒息による治療を受けた。その後も診療所へ顔を出しては、庭の竜を描いている。


 今日は絵だけではない。診療所の待合室に貼る竜の絵を頼まれたのに、途中まで描いては鉛筆を置いてしまうという。マリエッタが理由を尋ねると、ニネットは「手が下手になった」と言い張った。しかし紙を片づけようとしたとき、右肩をかばうように左手を添えたのを、受付係は見逃さなかった。


 人間側の町医師エーヴァが診察することになり、レナートはアルトの古いカルテを確認するため、隣の部屋で待った。ニネットは椅子に腰を下ろしたまま、鞄から鉛筆を三本取り出して机へ並べた。どれも芯が短くなり、持つところだけが妙に黒ずんでいる。


「そんなに強く握るの?」とエーヴァが聞くと、ニネットは鉛筆を握り直し、今度はもっと力を込めた。


「こうしないと、線が曲がるから」

「曲がるのが嫌なのか、腕を動かすのが怖いのか、どっち?」


 答えようとして、少女の指が止まった。



「痛むのは傷のところ?」


 エーヴァが尋ねると、ニネットは首を振った。


「そこじゃないの。ここ。絵を描くときだけ」


 指さしたのは古傷から離れた肩だった。エーヴァは腕の動きを確かめ、描くときの姿勢を見せてもらった。


「昔の傷が怖くて、腕を身体にくっつけたまま描いていない?」


 少女は少し考えてから、小さく笑った。


「だって、また開いたら嫌だから」

「今の傷は閉じているわ。動かし方を少し変えるだけでも楽になると思う。痛みが続いたら、ちゃんと教えてね」


 レナートは描きかけの紙を見た。細い線で表されたアルトの翼には、白い模様まで描き込まれている。


「その模様、よく見てるんだな」

「うん。前はなかったんだよ」

「そうなのか」

「わたしが小さいころ、アルトに治してもらって、それからできたの」


 レナートは手元の古いカルテを開いた。四年前の日付、八歳の少女の診療番号。傷の位置と処置内容の脇には、協力した竜の名が記されていた。


 アルト。


 治癒息は皮膚の回復を助けたが、完全に跡を消したわけではない。その後の検診にも異常はない。


「そのとき、腕を見せてもらえるかい」


 ニネットは上着の袖をまくった。腕の外側を横切る細い傷跡。途中で枝分かれした線が弧を描いている。


 レナートは息を詰めた。


 赴任初日にアルトの翼で見た白い線と、輪郭がよく似ていた。


「先生?」

「ごめん。驚いただけだ。アルトの模様を見せてもらってもいいかな」


 ニネットはすぐに裏庭へ走った。アルトは困ったように片目を開けたが、少女が翼の根元へ近づいても身じろぎしない。


 レナートが鱗を確かめる。白い模様は傷のように凹んではいない。鱗そのものの色が変わり、確かに少女の腕の傷と似た線を作っていた。


「共鳴痕ですね」


 後ろからエーヴァが言った。


「そうらしい。教科書で見たより、ずっとはっきりしている」

「珍しいもの?」


 ニネットは自分の腕とアルトの翼を交互に眺めた。


「毎回出るわけじゃない。治療した傷に似た模様が竜の鱗へ残ることがあるんだ。でも、模様があるから病気というわけじゃない」

「じゃあ、この線は、わたしのせい?」


 レナートは答えを急がなかった。


「君の傷をアルトが治したときにできた可能性は高い。ただ、それだけでアルトが苦しんでいるとは言えない。傷を治す息に負担がないわけじゃないけど、そのことは別に調べないと分からない」


 ニネットは口を結んだ。自分の腕の古傷と、アルトの翼に残る白い線を見比べるうち、持っていた絵の紙が握った手の中で曲がっていく。


「ねえ、先生。わたしが怪我をしなかったら、アルトの翼はずっときれいだった?」


 すぐ答えられる質問ではなかった。レナートはカルテを閉じ、少女と同じ高さに膝を折った。


「模様がいつ出るのか、出ない竜と何が違うのか、まだ全部は分かっていないよ。でもアルトが今も診療所で暮らしていることと、君を治したことは、どちらも本当だ」

「元気って、寝てばっかりだけど」

「焼き梨の袋だけは、どんなに遠くからでも見つけるだろ」


 ニネットは少しだけ笑い、曲がった紙の端を伸ばした。



「だったら、アルトも描く。ちゃんと模様まで」


 老竜は少女の手元へ鼻を寄せた。乾いた息で紙の角がめくれる。


「絵を食べるなよ」


 レナートが止めると、マリエッタが笑った。


 エーヴァの診察が終わったあと、ニネットは一度だけ受付の外へ出た。アルトの翼を眺めているうちに、さっき描いた絵が嫌になったのだという。


「これ、模様ばっかり目立つ」


 紙の上の老竜は、翼の白い線ばかりが目立っていた。ニネットは指先で何度かなぞったあと、消すべきか迷っている。


 ニネットは消しゴムを取ったが、紙には触れなかった。白い線を消したら、あの竜は自分が描いたアルトではなくなってしまう気がする。それなのに、線を残すと、四年前に痛かった腕を思い出した。


「こっちの翼、もう一回描いていい?」

「痛くなったら休む約束だよ」とエーヴァが言った。

「うん。今度は羽の先まで描きたいの」


 ニネットは椅子を机へ寄せ直した。鉛筆を持つ手の下に、エーヴァが折った布を一枚差し込む。急いで完成させるより、自分の腕に合う置き方を探すところから始めた。


「本物も、そんなに模様が目立つの?」


 レナートが尋ねると、少女は困ったように鼻をこすった。


「ずっと見てたら、そこばっかり気になるの。でもアルトって、本当は尻尾がすごく長いの。焼き梨を見つけたときだけ、ちょっと曲がる」


 レナートは笑った。紙の端には、老竜の尻尾がほとんど描かれていない。


「じゃあ、そっちも描いてみたらどうかな」

「うまく描けないんだよ。動くから」

「医者も似たようなものだよ。見たいところばかり見てると、別のところが分からなくなる」


 言ってから、少し説教くさかったかと後悔した。だがニネットは真剣に考え、老竜の尾を描き足し始めた。途中、鉛筆が古傷のある腕を引きつらせた。少女はすぐに手を止め、エーヴァから教わった姿勢へ座り直す。


 そこへアルトが鼻先を突っ込んできた。紙の上の自分と実物を比べているようだったが、ニネットが『動かないで』と言うと、わざとらしく大きく伸びをする。少女は笑い、また線を引いた。


「四年前、治してもらったときも、こんな顔だった?」


 レナートの問いに、ニネットは首を振った。


「そのときは、すごく怖かった。何が起きてるか分からなかったから。でもアルトの息があったかくて、母さんが泣いてたのは覚えてる」


 レナートは四年前の個別治療票を閉じた。ニネットはもう、次に描く絵の紙を選んでいた。


 午後、ニネットは椅子の高さを変えて、もう一度鉛筆を持った。角を描こうとして線が曲がったが、肩はさっきより楽だった。


「これじゃアルトの角、逆に曲がってる」

「本人だって先が欠けてるんだから、少しくらい平気よ」とエーヴァが言う。


 老竜が窓の外でくしゃみをした。ニネットは紙を隠そうとしてから、やめた。自分で描いたアルトの顔がおかしくて、先に笑ってしまった。


 エーヴァは痛みが続けば休むこと、しびれや力の入りにくさが出たら診せることを伝え、次の診察日を決めた。


 夕方、ニネットの母親が迎えに来た。仕事帰りらしく、手には小さな買い物籠を提げている。娘がまだ絵を描いていると知ると、安心したように肩を下ろした。


「今朝は鉛筆も持ちたくないって言っていたでしょう。痛いなら、無理をさせないでほしいんです」


「無理はさせていませんよ」とエーヴァが答えた。「しばらく短い時間だけ試して、痛みやしびれが出たら休むことにしました。家でも様子を教えてください」


 母親は娘の腕を見た。四年前の傷跡を、レナートよりずっと長い時間、見守ってきた人の目だった。


「アルトのことも聞いた?」


 ニネットが先に言った。


「うん。腕の傷と、あの白い模様が似てるって」


「……あの子には、無理をさせたわね」


 言いながら母親は老竜を見た。診療所の庭でアルトは、ノエを押しのけながら水を飲んでいた。


「治療をお願いしたのは、私です。ニネットが痛がっていて、少しでも早く楽になってほしかった。だから、今もあの竜がここにいることを確かめたくなるんです」


 レナートは、アルトがすでに治癒息の仕事から離れていることと、現在の身体の状態を定期的に診ていることを説明した。模様が残った理由と、老竜が今どのくらい負担を感じているかは、同じ問題ではない。母親は最後まで聞き、娘の鉛筆を二本だけ鞄へ戻した。


「じゃあ、今日はここまでね。続きは家で、休みながら」


「あと角のところだけ!」


「角だけよ」


 ニネットは紙に向かって、欠けた角を描き直した。先ほどよりずいぶん小さくなったが、ようやく本物に似た。


 母親は覗き込み、思わず吹き出した。


「アルト、こんな顔だったかしら」


「うん。梨を隠すときはもっとひどいよ」


 迎えに来たときより、親子の歩幅は少しだけゆっくりになっていた。


 帰り際、少女は一枚の絵をレナートへ渡した。


 裏庭のアルトと、その背に寄り添うノエ。水路の光まで描かれている。


「これ、先生に」

「いいのか?」

「飾って。みんなが見るところに」


 レナートは受付の壁に絵を掛けた。ほんの少し首の長すぎる老竜が、思った以上に診療所へ似合っていた。


「他にも、こんな模様の竜を見たことがある?」


 ニネットは帰りかけた足を止めた。


「うん。川向こうの荷運び竜にもあったよ。でも、あの子は元気だった」

「そうか。教えてくれてありがとう」


 少女が去ったあと、レナートは絵を見上げた。


 壁にかけた絵には、アルトの翼の白い模様も、妙に長い尻尾も、隣で眠るノエも描かれていた。レナートは四年前のカルテを棚へ戻した。傷の形を追うことはできる。だが、あの模様を持つ竜と持たない竜の違いまでは、そこには書かれていない。


 レナートはメモへ『川向こうの荷運び竜。ニネットに名前を聞く』と書いた。元気に働く竜にも同じ模様がある。それなら、模様だけを見てアルトの状態を決めることはできない。


 窓の外でアルトが大きくあくびをした。絵の中では白い模様のある翼が広がり、隣にノエが眠っている。ニネットが描いたのは、傷だけではなかった。

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