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第2話 三つの音

「前の型のままで、本当にいいんですか」


 翌朝、装具屋から届いた短い伝言を、レナートは何度も読み返していた。ノエの翼に合わせて採寸し直したばかりなのに、職人は以前と同じ留め具の位置を想定しているらしい。


「返事は診察のあとにします。ノエが翼を畳むところを、もう一度見たい」


 マリエッタが若竜を呼びに行った。診察室からアルトが見えるよう、庭へ続く扉は開けたままにしてある。


 午前、古い世話係のテオが顔を出した。腕の長い、背の低い男で、アルトとは彼が若いころからの付き合いだという。今日の目的は、ノエの新しい帯の寸法を確認することだった。


「昨日、3回叩いたんだってな」


 テオがアルトに話しかけた。老竜は顔を上げるだけで、返事をしない。


「先生は、あの合図をご存じか」

「診療を止めて、様子を確認する合図だと聞きました」

「そう。誰が具合悪いのかまでは教えてくれない。だから見て回る。昔は鐘の音だの荷車の音だので声が届きにくいから、床を叩くやり方を覚えた竜が多かった」


 テオは木槌を持った手で空中に小さな円を描いた。ノエもつられて首を傾げた。


「竜が覚えた合図なんですか。生まれつきの習性じゃなくて」

「生まれつきなら、俺たちの仕事はずいぶん楽だったろうな。竜にも人にも、教える根気がいる」


 レナートは昨日の診察を思い返した。3回続けて叩いたとき、アルトは確かに診察室を見ていた。自分はアルトを確かめ、次にノエを診た。異常は見つからなかったが、合図の対象を理解したとは言い切れない。


「見たところ何もなかったんですが」

「そういう日もある。空振りだったと決めつけないで、いつもと違うところを記しておけばいい」

「テオさんは、今も記録をつけるんですか」

「大雑把な字でな。細かい帳簿のほうはマリエッタがずっと上手だ」


 受付から「聞こえてます」という声が飛んできた。


 昼前、ノエを診察台へ上げるときには、扉を開けてアルトの姿が見えるようにした。昨日より簡単に台へ乗る。右の翼も素直に開いた。革帯の擦れは赤みが引き、触れられても嫌がらない。


「痛みは少なくなっているな。今日はそのまま、軽く動かすだけにしよう」


 レナートが台を下りるよう促すと、ノエは先に窓を見た。裏庭ではアルトが半分眠っていた。ノエも安心したように台を下りた。


「診療所に来るのが嫌いにならずに済みそうね」

「アルトがいるあいだは、でしょうけど」

「それを言うと、またあの子が威張りますよ」


 検査のあいだ、ノエの呼吸に目立つ乱れはなかった。レナートはカルテの経過欄へ、今日の診察結果を記した。昨日の3回の合図についても、アルトとノエを確認したものの明らかな異常は見つからなかった、とだけ残す。短い間に見聞きしたことを、確かめられない診断名に変えるわけにはいかなかった。


 昼食のあと、マリエッタが持ってきた正式な注文票にも「右の翼、前回と同型」とあった。朝の伝言と同じだ。寸法だけは正しく書き直されている。


「同型、というのはまずいな」

「寸法は変えたでしょう?」

「留め具の位置まで同じなら、また擦れます。あの子が嫌がったのは、翼を閉じる途中でしたから」


 数字を正しく書くだけでは、職人に同じ形を作らせてしまう。レナートは注文票へ、革帯が鱗を押さえる位置と、翼を動かしたときに折れ曲がる場所を描き足した。


「先生の字、読めないところがあるんですけど」

「絵のほうを見てください」

「それもちょっと怪しいですね」


 マリエッタに赤鉛筆で描き直され、ようやく注文票が完成した。竜に合う道具を作るには、職人の腕だけでなく、伝える側の腕も必要らしい。


 午後、レナートは昔の診療道具を収めた小部屋へ案内された。壁には大小の竜の翼の形をした板が掛けられ、革帯の切れ端が色ごとに整理されている。テオは古い板を一枚選び、ノエの装具を見せた。


「新しく作るなら、成長したからといって一度に大きくするな。余った部分が折り返して、かえって擦れる」


「昨日はまさにそれでした。右だけ、革が内側へ寄っていました」


「装具を作った職人が悪いとも言い切れん。採寸の日と、実際に長く動いた日の身体は違うからな」


 テオは鞄から古い布を取り出した。端に色糸で小さな線が縫ってある。一週間ごとの体格の記録だった。使い古した布でも、ノエがどのくらいの速さで大きくなったかは一目で分かる。


「これ、ずっと残してるんですか」

「竜は口で痛いと言えない。人間の側が昨日までの姿を覚えておかないと、変わったことに気づけないだろう」


 レナートは自分のカルテを思い出した。装具の寸法は書いたが、ノエがどんなときに翼を閉じたがらなかったかまでは、十分に聞けていない。テオはそのことを責めもしなかった。ただ、ずっと見てきた人の目で、若い医師に知ってほしいことを示していた。


 裏庭へ出ると、ノエが木の陰からアルトの背へ近づいていた。老竜は気づいていないように見せかけ、若い竜がその翼へ鼻先を押し込もうとした瞬間、身体の向きを変える。ノエは勢い余って尻尾を踏み、アルトに追い払われた。


「毎日あれです」


 テオは呆れたように言いながら、どこか嬉しそうだった。


「仲がいいんですね」

「いいときもある。アルトの機嫌が悪い日は、ノエだって嫌になるだろう。でも次の日にはまた近づく。竜の付き合いは、見ているほうがずっと面白い」


 マリエッタが窓から呼んだ。午後の患者が来たらしい。レナートは道具室の戸を閉め、テオの布に残された小さな印を、もう一度頭に入れた。


 テオが道具室の戸を閉めるころ、装具を作る店の見習いが注文票を受け取りに来た。革の見本を抱え、頬に細い切り傷をつけた少年だった。


「前と同じ型じゃないんですか」


 注文票を見るなり尋ねるので、レナートは試しに新しい留め具の位置を説明した。少年は何度も紙を裏返したが、どうにも納得しない。


「寸法を変えると、留め具を縫い直すことになります。親方には、帯を少し長くするだけって聞いてます」


「長さだけ変えれば、ノエはまた痛がる。昨日、翼を閉じたところを見てもらおうか」


 庭へ出ると、ノエはアルトの尾の先を追いかけていた。レナートが革帯の端を軽く翼へ当て、閉じる途中で折れる位置を示す。そこだけが鱗の上を滑らず、引っかかる。


 少年が膝をついた。紙を手にしたときには首を傾げていたのに、実物の動きを見ると指先で革を押さえ、じっと考え始めた。


「ここを一枚薄くしたら、曲がっても当たらないかも」


「薄くするなら、強さも確かめたい。仕事の途中で切れたら困るから」


「親方に聞いてきます。明日の朝、端切れを二つ持ってきてもいいですか」


「もちろん。どっちがいいか、ノエに決めてもらおう」


 見習いは立ち上がりかけて、もう一度しゃがみ直した。自分の袖口を指でつまみ、肘を曲げてみせる。


「こういうところが、当たるんですね」

「人間の腕なら、そのくらい。でも竜の翼はもっと大きく動く」

「じゃあ、親方にも実物を見てもらったほうが早いか」


 注文票の余白へ描かれた翼は、ひどく不格好だった。少年は消そうとしたが、レナートは止めた。鱗に当たる場所だけは、言葉で説明するよりずっと分かりやすかった。


 少年は笑った。ノエは話など聞いていない。アルトに尻尾を踏まれて、小さく鼻を鳴らしていた。


 見習いが帰ると、マリエッタは注文票の写しを棚へ入れた。


「親方も連れてくるって、あの子、言いそうですね」

「来てくれたら助かります。図より実物が早いので」


 庭ではノエが、アルトの隣で翼を畳む練習をしていた。


 夕方、ロザンナが朝届けた焼き梨の包みが、ようやく開けられた。


 アルトは梨を一つ受け取り、石畳の上で慎重に転がした。温かさを確かめているようにも見える。ノエが興味津々に近づくと、老竜は前脚で梨を自分の胸へ引き寄せた。


「お前、そんなに好きなら、自分で作ればいいのに」


 レナートが言うと、マリエッタは吹き出した。


「先生、竜に窯の火を預ける気?」

「いや、もちろん冗談です」

「アルトは案外その気になるかもしれませんね」


 アルトは二人の会話など気にせず、梨を食べ始めた。甘い果汁が鱗に垂れる。そのそばでノエが前脚を持ち上げ、アルトの仕草を真似ようとして、何もつかめないまま下ろした。


 レナートは笑いかけ、ふと目を細めた。


 竜は誰かの動きを見て覚える。教えられた合図も、好物を隠す仕草も。それなら、ノエはいま何を覚えているのだろう。


 窓辺には、昨日のカルテが開いたままになっていた。アルトの合図を聞き、最初にアルトを確かめ、次にノエを診た。その順番を忘れないよう、レナートは診察時の経過として短く書き足した。


 裏庭から、梨の芯が転がる音がした。


「アルト、二つ目は明日です!」


 マリエッタの声に、老竜はたいそう不満そうな顔をした。

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